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	<title>戦争体験 - （株）流通ビジネス研究所</title>
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	<description>　　家電流通のプロフェッショナル</description>
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	<title>戦争体験 - （株）流通ビジネス研究所</title>
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		<title>入隊して最初の前線　続き</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 27 Jun 2023 02:40:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[戦争体験]]></category>
		<category><![CDATA[カンチャーズ島事件]]></category>
		<category><![CDATA[北安]]></category>
		<category><![CDATA[歩兵第49連隊]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>以前、「入隊して最初の戦場」の記事で、加藤馨氏が陸軍に入隊して最初に経験した戦場、昭和12年6月の「カンチャーズ島事件」について紹介しました。「回顧録」に記された文章を再度引用します。 　初年兵としての教育訓練が３ヶ月あ &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/2276" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">入隊して最初の前線　続き</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>以前、「<a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278" target="_blank" rel="noopener" title="">入隊して最初の戦場</a>」の記事で、加藤馨氏が陸軍に入隊して最初に経験した戦場、昭和12年6月の「カンチャーズ島事件」について紹介しました。「回顧録」に記された文章を再度引用します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　初年兵としての教育訓練が３ヶ月あり、これが終って全員一等兵という階級になり、ひととおりのことができるようになりました。この年の６月にソ満国境のアムール河の中にある小さな島をソ連軍が占領したとのことで、我が部隊に出動命令が来て、連隊長以下全員出動しました。<br>　この時の命令が無理だったらしく、部隊は疲労困憊して、現地に着いた頃には、みんな口もきけないように行軍で疲れてしまいました。この日の夜、近くの満人の部落に野営しましたが、夜になって隊長以下全員が死んだようになって寝てしまいました。この夜に私は夜の10時から２時間歩哨として番をしましたが、時間が来ても誰も交代に来ず、私も夜が明けるまで１人で歩哨（寝ないで番をする役）を寝たり起きたりしながら努めました。もしソ聯軍が攻めてきたら我が部隊（約５００名）は全滅になるところでした。<br>　私は今でもこの日の苦しさは死ぬより苦しい１日で人間は疲労困憊したら駄目と悟りましたので、以後軍人生活中この教訓を守りました。この頃満州は春で、野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました。その後ソ連軍が撤退したので我が部隊も元の地に帰りました。</p>
<cite>加藤馨氏「回顧録」より　読みやすいように表現等を編集しています</cite></blockquote>



<p>「みんな口もきけない」ほどに「疲労困憊」した行軍。加藤馨氏の別の手記「家系記録」には以下のように記されています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>日本とソ連邦との紛争で黒龍江カンチアース島の戦闘に急派されたが、戦闘に至らず休戦となる。約10日、この間に<strong>死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなる</strong>ものだと感じた</p>
<cite>加藤馨「家系記録」より</cite></blockquote>



<p>「死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた」という文章は強烈です。戦闘に至らなかったものの、初めての戦場は加藤馨氏に強烈な印象を残しました。その後、加藤馨氏は暗号・通信担当となり、ラバウルで米軍機による攻撃や厳しい食料事情なども経験しています。しかし、最初の戦場はそれらを超えるほどの体験だったのでしょう。その最初の戦場である「カンチャーズ島事件」ですが、上記2つの手記以外に加藤馨氏が言及している資料は現状ではありません。</p>



<p>そのような中、「<a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278" target="_blank" rel="noopener" title="">入隊して最初の戦場</a>」の記事に関心を持たれ、問い合わせをいただいた日ソ紛争史の研究者がおり、その方の論文の参考資料を読んでいたところ、「カンチャーズ島事件」を知る手掛かりとなる資料をみつけ、さっそく古書を入手しました。「戦記 甲府連隊　山梨・神奈川出身将兵の記録」（産経新聞社）、「甲府聯隊写真集」（国書刊行会）の2冊です。研究者の方によると、カンチャーズ島事件に関する資料はあまり残されていないとのこと。加藤馨氏の戦場体験を知る上で非常に参考になる書籍です。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　北満に、ふたたび春がめぐってきた――。四十九連隊が渡満してきてから、ちょうど一年たったのだ。厳しい寒さも遠くシベリアのかなたに去り、雪も消えた。<br>　北安一帯の大波状地は、雪どけ水が音をたてて流れだした。長い冬からの解放である。<br>　五月も中旬を過ぎると見渡すかぎり草原に、ことしもまたタンポポの黄色いジュウタンがひろげられた。名も知れぬたくさんの草花もかれんな花をひらき気候も急に暑くなってきた。</p>
<cite>書籍「戦記 甲府連隊」　「2．カンチャーズ事件」から</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏の回顧録にある「野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました」と重なる描写です。そして昭和12年6月19日、ソ連の国境警備兵が島に上陸し、占拠しているらしいとの報が満州の国境監視隊から入ります。加藤馨氏がいる歩兵第49連隊が所属する第一師団は、同年6月24日から移動を開始。6月末には北安の連隊本部から歩兵第49連隊主力が出動する事態となります。出動命令が出ても、作戦の詳細は一般兵には知らされません。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　「非常呼集演習か――」ややガッカリしながら内田一等兵らも手早く武装をつけて兵舎前に整列した。各人に三八式歩兵銃と実弾百二十発が渡された。前盒後盒に入れると、腰にぐっと重みがかかる。<br>　「本中隊は尖兵中隊となって、ただいまより目的地に向け出発する――」<br>　中隊長稲垣正治大尉の号令で夕暮の営門をでて北安駅に着いた。<br>　すでに黒い貨車が何両も引き込み線にはいっていた。「乗車――」の命令で、どかどかと乗り込むと、そのまま列車は動きはじめた。<br>　「演習にしてはおかしいぞ――どこにいくのだろう‥‥」兵たちも、すでにふつうの演習ではなさそうだと気がついていたが、討伐なのか、どこへゆくのか見当もつかなかった。</p>
<cite>書籍「戦記 甲府連隊」　「2．カンチャーズ事件」から</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏が第49連隊のうち、どの中隊に所属していたか分かりませんが、手記からは同日に出動していたものと思われます。それまでは訓練のみで、はじめての前線への出動ですが、加藤馨氏も上記一等兵と同じような心境だったでしょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　孫呉についた第七中隊は、三原中佐の指揮下にはいった。<br>　「ただちに遜河に向け出発――到着次第歩哨線を張り、住民を黒竜江方面へは一歩もだすな――」<br>　黒河から到着したばかりの三原中佐は稲垣中隊長にテキパキと命令、第七中隊はトラックに分乗して、夜明けの大草原を遜河に向け出発した。<br>　ひどい道だった。起伏のはげしい荒野原――、湿地帯も多く、トラックは揺れに揺れた。ホロをおろしたなかに詰め込まれた兵隊たちはつかまっているのがやっとだった。（中略）<br>　ほどなく後続部隊が到着したので、稲垣中隊はただちに黒竜江岸に向かって行軍を開始した。こんどは徒歩行軍である。果てしない波状地を越えて、首までつかるような湿地帯をわたり苦しい行軍だった。落伍者がふえはじめるころ、目の前に黒々と海のような水をたたえた大きな河がみえてきた。<br>　「アムール河だ‥‥」<br>　兵たちは思わず叫んだ。<br>　初年兵にとっては、はじめてみる黒竜江の流れである。無気味なほど静かな流れである。江岸の小さな部落に到着、後命を待つことになった。</p>
<cite>書籍「戦記 甲府連隊」　「2．カンチャーズ事件」から</cite></blockquote>



<p>　加藤馨氏の手記だけでは伝わらない臨場感、緊張感が伝わります。急な出発で貨物列車に乗り込み、悪路をトラックの荷台で進み、その後は首までつかりそうな湿地帯での行軍。「落伍者がふえはじめる」ほどの困難な行軍だったことが伝わります。この行軍で加藤馨氏もまた、過去に経験したことがないほど疲労困憊します。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" fetchpriority="high" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2023/06/img_3594.jpg?resize=674%2C504&#038;ssl=1" alt="「甲府聯隊写真集」より、北安の湿地帯の風景のページ" class="wp-image-2290" width="674" height="504"/><figcaption class="wp-element-caption">北安地域は冬は零下30度であらゆるものが凍り付き、春を過ぎると雪解けにより湿地帯になる厳しい環境。写真は「甲府聯隊写真集」より昭和11年の歩兵49連隊による討匪行の様子</figcaption></figure>
</div>


<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました。<br>　この日の夜、近くの集落に野営しましたが、隊長以下全員死んだように寝てしまいました。<br>　この夜、私は夜10時から２時間歩哨（寝ないで番をする役）をしましたが、交代時間になっても誰も来ません。夜が明けるまで一人で寝たり起きたりしながら歩哨を務めましたが、もしソ連軍が攻めてきたら我が部隊（約500名）は全滅になるところでした。</p>
<cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏が「部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました」というの中での、歩哨任務は本当に苦しいものだったでしょう。</p>



<p>その後、出動部隊のうち稲垣大尉以下第七中隊は、占拠されたカンチャーズ島に上陸します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　敵はいないが、ものすごい蚊とブヨの攻撃が、将兵をおどろかした。歩くと草かげから蚊柱がたつほどのおびただしい大群だ。赤い色をした大きなブヨから、コヌカのような小さな蚊の群れが煙幕のように将兵の周囲を包んだ。<br>　「ワーッ、これはひどい」こんな声があちこちでする。みなあらかじめ防蚊フクメンを持ってきており、それぞれ顔にかぶってはいるのだが、そのアミの目からさえはいってくる蚊がいるのだ。　</p>
<cite>書籍「戦記 甲府連隊」　「2．カンチャーズ事件」から</cite></blockquote>



<p>その後上陸した部隊は、侵入したソ連艇と戦闘となり、一隻撃沈します。しかし、加藤馨氏はこの戦闘でソ連艇を一隻撃沈したことを知らず（偕行社に送った質問状）、加藤馨氏は上陸部隊にはいなかったようです。もちろん、上陸部隊での戦闘を経験しなかったからといって、任務が楽だったわけではありません。任務も分からないまま命令に従って動かなくてはならず、極度の疲労困憊、さらには厳しい自然環境。だからこそ、「死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた」と回想しているのでしょう。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2023/06/img_3595.jpg?resize=657%2C466&#038;ssl=1" alt="「甲府聯隊写真集」より、カンチャーズ事件のページ" class="wp-image-2291" width="657" height="466"/><figcaption class="wp-element-caption">これまでの対ゲリラ戦と異なり、大国ソ連との一触即発の事態となった「カンチャーズ島事件」。出動の様子が「甲府聯隊写真集」に掲載されている。左上写真に「監視の哨兵には一瞬の油断も許されぬ」との説明があるが部隊到着当日の状況は違ったようだ</figcaption></figure>
</div>


<p>加藤馨氏が入隊し、北安に赴任したのは昭和12年2月。その翌月3月には、歩兵第49連隊の町田等第6中隊長が、部下20人と共に現地でゲリラに襲撃され全滅します。歩兵第49連隊は、山梨、神奈川出身者で構成されており、町田隊玉砕の報は出身町村に衝撃を与えました。「嗚呼町田隊」という芝居が各地で上演され、全国からの寄付により1年後には甲府に町田少佐の銅像がたてられたほどです。歩兵第49連隊に所属し、初めて前線に赴任した加藤馨氏にとって、死は身近なものだったのでしょう。その後３か月の教育訓練を経て一等兵になった加藤馨氏は、その１か月後にカンチャーズ島事件を経験したのです。</p>



<p>愛国心に燃えて志願したわけではなく、父の急死により進学をあきらめ、実家の農業を手伝うしかなかった中で、職業として軍人を選んだ加藤馨氏。その加藤馨氏にとって、カンチャーズ島事件の経験は、イデオロギー云々ではなく、戦争という非日常の理不尽さや狂気を身をもって知る体験となったのではないでしょうか。</p>



<p>カンチャーズ島事件から約１か月後、加藤馨氏は下士官を養成する教導学校の学生応募に志願し合格。同年9月下旬に豊橋陸軍教導学校入学のため北安を離れます。歩兵第49連隊は、その後もソ連・満州国境の警備を続け、黒河省神武屯に移駐。昭和14年にはノモンハン事件での戦闘に加わります。昭和19年以降、グアムやレイテといった南方戦線に投入され、多くの将兵が玉砕しました、</p>



<p>20歳でカンチャーズ島事件を体験した加藤馨氏。「10日間、死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた」――加藤馨氏のこの言葉は、置かれた環境において人間の精神がいかに変化するか、死を恐れなくなることの怖さを物語っています。</p>



<p>加藤馨氏は、ケーズデンキの創業者としてビジネスを成功させます。「人を大切にする経営」「お客様のための本当の親切」といった経営哲学、創業精神を学ぶことも大切ですが、加藤馨氏の「戦争は悲惨です。決して起こしてはならない」という強い思いもしっかり受け継いでほしいと思います。</p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/2276">入隊して最初の前線　続き</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>加藤馨氏と水戸の結びつき</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Feb 2022 04:27:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
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		<category><![CDATA[テッポウユリ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955（昭和30）年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">加藤馨氏と水戸の結びつき</span></a></p>
<p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357">加藤馨氏と水戸の結びつき</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955（昭和30）年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千木良となっています。千木良村の農家に生まれ、成績優秀で鎌倉の師範学校への入学が決まっていた加藤馨氏ですが、父が急死したため進学をあきらめます。家業である農業を約5年手伝っていましたが、次兄の「農業の手伝いはやめて自分の将来の仕事に就かせないと先が大変になる」との勧めもあって軍人になりました。</p>



<p>昔は長男が家督を継ぎ、それ以外の兄弟は他家に婿入りしたり、あるいは自分の人生を切り開いていくなど独立する必要がありました。加藤馨氏にとって自分の人生の拠点となったのが、ケーズデンキ創業地である茨城県の水戸です。加藤馨氏と水戸の縁は、1941年12月25日の水戸陸軍航空通信学校への入学から始まります。翌年8月25日に卒業すると同時に加藤馨氏は通信学校用員となり、同年10月に新たに編成される第６飛行師団本部通信隊用員となりました。第6飛行師団はソロモン・ニューギニア作戦の指揮に当たる第8方面軍隷下に11月に編入され、ニューギニア東部で航空戦や船団の護衛を担当します。加藤馨氏も本部通信隊用員として着任するため、10月下旬に東京芝浦港を出航し、4日かかって本部のあるラバウルに移動しました（翌年4月に司令部をウェワクに移動）。</p>



<p>ラバウルで通信隊用員として任務にあたる中で、1943（昭和18）年8月に隊長から9月に実施される航空士官学校の学生科入学試験を受験するよう命を受けます。後日、第6飛行師団で受験した32名中１位の成績で合格。大型無線機の移設任務などを経て、同年10月1日に埼玉県豊岡町にある陸軍航空士官学校に入学。卒業後、通信科学生は全員水戸の陸軍航空通信学校で1か月間の教育があり、通信科学生20名のうち加藤馨氏を含む3名がそのまま水戸の陸軍航空通信学校付きを命じられました。加藤馨氏は少尉となり、下士官学生の教育にあたり、その後1945（昭和20）年に中尉に昇格して電波兵器教育隊で教官を務めます。そして、航空通信学校に事務員といて勤めていた芳江さんと結婚式を挙げ、加藤馨氏は電波兵器教育隊の教官として水戸で終戦を迎えました。加藤馨氏は暗号班や通信将校だったこともあり、早くから日本の敗戦を予想していたはずですから、芳江さんと結婚し、水戸で戦後の人生を歩んでいくことを決意していたのかもしれません。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="ユリ根の栽培-輸出という縁">ユリ根の栽培・輸出という縁</h2>



<p>戦後、加藤馨氏は水戸でラジオ修理店を開業し新たな生活を始めますが、神奈川から来た「よそ者」としてボロ家を借りるにも苦労しました。しかし、水戸との縁はなにも陸軍航空通信学校だけではありません。調べると奇妙な縁が見えてきます。</p>



<p>冒頭に記したように加藤馨氏の実家は神奈川県の千木良村の農家で、父は千木良村で多くの人に頼られる存在でした。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　関東大地震の後３年くらいは、この復興事業で日本の景気は良かったのですが、昭和のはじめの頃になると、全国的に不景気になり、千木良でも生活できない家庭が続出しておりました。当時村では養蚕で繭を作ってこれを売り、工場ではこれを生糸にしてアメリカに輸出して国の輸出の50％くらいを占めていましたが、アメリカが不景気になって生糸の値が半値に下がってしまったのです。<br>　この頃、私の父はどこから聞いたのかわかりませんが、鉄砲百合を村で１人作っていたのが当たって、大層高く売れて5000円（今の物価では4000万円くらい）になり、村中の評判になって、夜になると村の人々が毎日のように鉄砲百合の作り方をききに来ていました。３年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです。父は何につけてもとても熱心でしたので加藤家ではこの鉄砲百合の栽培で成功して（以下略）</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>テッポウユリは、もともと日本では食用として栽培されていましたが、明治６年（1873年）にウィーン万国博覧会に出品され話題となって以降、欧米で大人気となりました。真っ白なユリは、キリスト教において純潔を象徴する花であり、聖母マリアを象徴する花とされていることが人気の理由です。人気となった日本のユリ根は欧米への輸出が盛んになります。<a href="https://www.jacar.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="国立公文書館アジア歴史資料センターのサイト">国立公文書館アジア歴史資料センター</a>では、「ユリ根の輸出」という項目で以下のように紹介しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>明治41年（1908年）に日本から輸出されたユリ根は1200万個近く、金額で45万円近くに上っていました。また、国別の輸出統計からは、そのほとんどが欧米諸国に運ばれたこと、特にイギリスとアメリカ合衆国への輸出が抜きん出ていたことがわかります。輸出港別の統計からは、横浜港からの輸出が９割以上を占めていたことがわかります。なお、横浜におけるテッポウユリのユリ根には、一本あたり2円50銭～5円の値が付いています。</p><cite>国立公文書館アジア歴史資料センター「<a href="https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p02.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="ユリ根の輸出 ～欧米で愛好された日本の草花～">ユリ根の輸出 ～欧米で愛好された日本の草花～</a>」</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏の父も、おそらくは横浜港から輸出されるユリ根のことをどこかで耳にして、栽培を始めたのでしょう。しかし、「３年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです」と加藤馨氏が振り返っているように栽培は簡単ではなかったようです。生糸の価格暴落が発生したのは1919（大正８）年前後、第一次世界大戦が終わった後です。その後、1923（大正12）年の関東大震災で震災恐慌が起き、1927（昭和2）年には金融恐慌が発生。そのような厳しい経済環境下、ユリ根栽培の成功により、加藤馨氏の２人の兄は農学校へ、一番上の姉は和裁の学校へ、すぐ上の姉は師範学校へ入学できたそうです。末っ子の加藤馨氏も師範学校への入学が決まっていましたが、父の急死により進学をあきらめざるをえませんでした。</p>



<p>後年、経営から退いた加藤馨氏は、故郷千木良の老朽化した公民館を、1億円の私財を投じて建て替えます。落成した「相模湖町立千木良公民館」の正面入口の上には、相模湖町の町章と並んでテッポウユリの絵が掲げられていました（市町村合併され、現在は町章とユリの絵は掲げられていません）。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/02/img_0389.jpg?resize=551%2C734&#038;ssl=1" alt="千木良公民館完成式典のパンフレット" class="wp-image-1363" width="551" height="734"/><figcaption>千木良公民館の完成式典パンフレット。公民館入口上にテッポウユリの絵が掲げられている</figcaption></figure>
</div>


<p>千木良村の加藤家を支えた輸出用ユリ根の栽培。実は、徳川慶喜公もユリ根の栽培、輸出を手掛けていたそうです。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家に養子入りした後、江戸幕府最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還で将軍職を退いたのち、「自らクワを持って堀り、ユリを栽培し、外国へ送るビジネスを始めた」（明治７年の新聞）と報じられています。当時の慶喜公はまだ30代後半。静岡に居を移し、政治にかかわることなく、さまざまな趣味に没頭していました。慶喜公のユリ輸出ビジネスが成功したかどうか定かではありませんが、明治７年はウィーン万博が開催された翌年の取り組みですから、先見の明があったと言えるでしょう。水戸という新天地に居を構えて家電流通事業を興した加藤馨氏が、慶喜公とユリ栽培・輸出ビジネスでつながっているのは奇妙な縁と感じられます。今回の記事は加藤馨氏の経営思想とは直接関係ありませんが、ちょっと面白いエピソードだったのでご紹介しました。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/02/img_0390.jpg?resize=567%2C449&#038;ssl=1" alt="昭和14年当時のユリ畑" class="wp-image-1365" width="567" height="449"/><figcaption>1939（昭和14）年8月の千木良のユリ畑。写っているのは家業を引き継いだ長兄・加藤操氏</figcaption></figure>
</div><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357">加藤馨氏と水戸の結びつき</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>暗号班への配属が人生の転機に</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 01 Feb 2022 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[戦争体験]]></category>
		<category><![CDATA[伊集院部隊]]></category>
		<category><![CDATA[暗号班]]></category>
		<category><![CDATA[歩兵第149連隊]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 ソ満国境で発生したカンチャーズ島事件に参加して間もなく、加藤馨氏は教導学校（下士官を養成する学校）の学生募集に応募し、簡単な面接を経て入学を許可さ &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1327" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">暗号班への配属が人生の転機に</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>ソ満国境で発生したカンチャーズ島事件に参加して間もなく、加藤馨氏は教導学校（下士官を養成する学校）の学生募集に応募し、簡単な面接を経て入学を許可されます。当時の教導学校は豊橋（愛知県）にあり、1937（昭和12）年9月20日に任地を出て、9月25日に甲府の部隊に帰還します。10月1日の教導学校入学を前に、加藤馨氏は故郷千木良の実家に帰ります。入隊後はじめての帰宅で、回顧録には「何も知らされてないまま急に帰りました。母をはじめ家中喜んで迎えてくれました」（仮名遣いや表現を修正しています）と記されています。また、教導学校には上等兵でなければ入学できない規則なので、加藤馨氏は一等兵から上等兵に繰り上げ昇進。「家に帰ると家の人も近所の人も、入隊してまだ９ヶ月しか経たないのに上等兵になって帰ったので不思議に思われました」そうです。</p>



<p>豊橋の教導学校に入学して2か月後に、学校が予備士官学校に転換されたことに伴い、熊本教導学校に転校。1938（昭和13）年に教導学校を卒業すると甲府の歩兵第49連隊に帰還し陸軍伍長に任命されます。歩兵第49連隊からは45名が教導学校に入学していましたが、満州の本隊に戻る人員と甲府で新たに編成された歩兵第149連隊に配属される人員とに分けられ、加藤馨氏は後者となります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>これが生死の境となるとは誰も予想しませんでした。満州の部隊に帰った人は昭和19年のフィリピン・レイテ島の日米決戦に動員されて全滅してしまいました（16名残ったとの話です）。</p>
<cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>生死だけではありません。歩兵第149連隊では同年8月に暗号係に任命され、東京の近衛歩兵第１師団第３連隊、通称「麻布三連隊」にて約2週間暗号に関する教育を受けるよう指示されます。暗号担当となったことで、前線で命を落とすリスクが大幅に減り、さらには情報通信担当として通信機器を扱うノウハウを得たことが、戦後電器店を開業する土台となったのです。2011年の日記には「太平洋戦争の新しいDVDを5巻22～24日全部観た。私は幸運だとつくづく思った」と記述がありますが、同様の発言は他の日にも多く見られます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>北支出征にあたり、部隊間の通信が全て機密を守るため暗号電報になるため、この要員教育が東京の第１師団で２週間有り私はこの要員に指名されました。当時暗号などというものは誰にとってもはじめてでした。連隊副官が私を呼び、「この教育に参加する者はこの連隊ではお前が１人だから全部覚えて来い。後でわからないでは困る」と強く言われました。当初は勝手に私を指名しておいてこんなことをいうので、困った仕事を命じられたと思いましたが、各部隊から１名ずつ集合する教育と聞いて決心しました。（中略）そして２週間の教育を受けて帰りました。思ったより難しいことではないと感じて安心して甲府の部隊に帰りました。この教育は、勉強に使用した資料は全部秘密で返して何もなく、連隊副官が言うように頭に入れて帰りました。私はこの時、私がこの部隊の下士官の中で一番覚えのよい人ということで選ばれたと感じました。</p>
<cite>加藤馨氏「回顧録」</cite></blockquote>



<p>歩兵第149連隊の編成が完了すると、同年秋に中国北部の済南市の西方にある臨清県に派遣されます。ここで1938（昭和13）年秋から1941（昭和16）年４月まで加藤馨氏は連隊本部の暗号班長をつとめます。部下は存学中に徴兵年令になって延期が出来ず召集された大学生たちが中心。暗号係という仕事が難しいことから、大学生ばかりだったそうです。「忙しい毎日で交代で夜1時まで電報の翻訳に当たった」と加藤馨氏は振り返っています。師範学校への進学をあきらめざるをえなかった加藤馨氏ですが、頭脳明晰さと真面目に仕事に取り組む姿勢は入隊後も目を引いたのでしょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="最高の人格者-伊集院兼信大佐">最高の人格者～伊集院兼信大佐</h2>



<p>臨清県で暗号班長を務めていた当時の写真に1942年（昭和17）年7月に撮影された「伊集院部隊本部の人々」という集合写真が残されています。「私は暑さに強い方でしたが、この北支の暑さにはどうしようもなかった」との文字が添えられています。伊集院部隊の部隊長の写真も残されており、「我が隊の部隊長 伊集院大佐　私が軍人として勤務した期間で最高の人格者であった。後に少将になったと聞いている」と添え書きされています。</p>



<p>この伊集院大佐というのは、最終階級陸軍少将の伊集院兼信氏と思われます。伊集院兼信氏は1936（昭和11）年にクーデター「２２６事件」が発生した際に、陸軍歩兵少佐および歩兵第３連隊第２大隊長として、事件の首謀者の一人とされる、部下の安藤輝三大尉（後に死刑）の説得にあたったことで知られます。</p>



<p>伊集院兼信氏、安藤輝三氏ともに、統率力があり部下の信望が篤い人物でした。特に安藤大尉は、武装決起に慎重な立場を取っていたにもかかわらず、同志を見殺しにはできないと参加を決心し、決起後は統率力を発揮して徹底抗戦の姿勢を取りました。安藤大尉の部下に襲撃された鈴木貫太郎侍従長官（後の首相）は、安藤大尉について「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に語ったそうです。映画「２２６」では、安藤大尉を三浦友和が、伊集院少佐を松方弘樹が演じており、伊集院少佐による説得シーンは名場面のひとつに挙げられます。</p>



<p>ちなみに２２６事件では、加藤馨氏が入隊した甲府の歩兵第49連隊が、鎮圧部隊として東京市（当時）に出動しています。２２６事件が昭和11年２月に発生し、加藤馨氏が歩兵第49連隊に入隊したのは翌年1月。伊集院大佐と加藤馨氏の間にも浅からぬ縁を感じます。</p>



<p>なお、加藤馨氏は伊集院大佐が歩兵第149連隊の連隊長だったと記憶していましたが、これは事実と違うようです。伊集院兼信氏は、1939年（昭和14年）3月に陸軍歩兵大佐となり、同年12月に歩兵第210連隊長に就任しています。加藤馨氏が暗号班にいたのは、先にも記したように1938（昭和13）年秋から1941（昭和16）年４月までです。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/ijuinbutai.jpg?resize=692%2C498&#038;ssl=1" alt="加藤馨氏のアルバムから伊集院部隊所属時のページ" class="wp-image-1338" width="692" height="498"/><figcaption class="wp-element-caption">昭和14年7月の時点で加藤馨氏は22歳。暗号班の部下は召集された大学生が中心</figcaption></figure>
</div>


<p>この時期の歩兵第149連隊（第101師団）は、1938（昭和13）年春に徐州作戦に参加、同年7月から10月にかけて南昌の北方廬山の中国軍を攻撃、10月25日に徳安城を落として終結させています。その後、1939（昭和14）年３月には南昌作戦に参加し、作戦開始後10日で南昌を陥落させ、その後南京へと移動しました。</p>



<p>一方、伊集院大佐が連隊長を務める歩兵第210連隊（第32師団）は、1939（昭和14）年12月に編成されてのち、山東省西部の警備業務に従事しています。加藤馨氏が暗号班長を務めていた臨清県は、まさに山東省西部。臨清と南昌では約1000㎞の距離があります。このあたりは、加藤馨氏が偕行社に出した質問状でも、偕行社から「第149連連隊長は津田辰彦大佐であり、伊集院兼信大佐は歩兵第210連隊の連隊長です」と回答されています。加藤馨氏が自身の所属部隊を間違えて記憶していることは考えられません。同時の陸軍の状況はわかりませんが、師団が異なるものの、加藤馨氏は歩兵第149連隊に所属しながら、臨清県で伊集院連隊長のもと暗号班の任についていたのでしょう。腕の立つ暗号解読の人材が豊富ではなかったのかもしれません。</p>



<p>加藤馨氏の戦時中のアルバムを見ていると、伊集院大佐への「最高の人格者」という一文だけでなく、他の人に「部下思いの副官」「全員に忌われている」（原文ママ）「鬼中佐」と添えられている写真もあります。人の命が軽く扱われ、上官の命令は絶対という軍隊生活の中で、加藤馨氏も人間のいろいろな面を見てきたはずです。戦後起業した加藤馨氏が「正しく生きる」という言葉を常に説き続けてきた背景には、極限下での人間の行動を目の当たりにした経験、どのような状況でも「正しさ」を失わない人との出会いなどが含まれているのでしょう。環境が整っていて余裕があるから「正しいことをする」のではなく、どんなに厳しい状況に置かれていても常に「正しいことをする」――この考え方が、戦後ラジオ修理店を開業してから、混売店、量販店へと会社を大きくしていった加藤馨氏の経営思想です。</p>



<p></p>



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		<title>入隊して最初の前線</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Jan 2022 02:59:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[戦争体験]]></category>
		<category><![CDATA[カンチャーズ島事件]]></category>
		<category><![CDATA[中国残留夫人]]></category>
		<category><![CDATA[歩兵第49連隊]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏は小学校での成績が良く、卒業後は鎌倉の師範学校への推薦入学が決まっていました。しかし、父が急死したため進学を断念。家計を助けるために長兄の &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">入隊して最初の前線</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>加藤馨氏は小学校での成績が良く、卒業後は鎌倉の師範学校への推薦入学が決まっていました。しかし、父が急死したため進学を断念。家計を助けるために長兄の農業（百合や野菜の栽培）を手伝います。約5年間農業を手伝いましたが、このままでは将来の展望もないと、次兄の勧めもあって1936（昭和11）年8月に陸軍の入隊検査を受けます。検査に合格し、翌年1月10日に甲府の陸軍歩兵第49連隊に入隊。約1ヶ月の基礎教育を受け、満州に展開していた本隊と合流するべく、2月に広島港から中国・大連、そこから陸路で満州国北部のソビエト国境に近い北安という町に向かい（現在の黒竜江省黒江市）、やや離れたところにある宿舎に到着します。このとき馨氏は19歳。5月5日に20歳の誕生日を迎える直前でした。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>一番先にびっくりしたのは寒さでした。2月半ばでしたが一番寒い日は零下38度になり、生れて初めてこの寒さを体験しました。</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>厳しい寒さの中、3ヶ月の教育訓練を経て加藤馨氏は一等兵となります。その直後、1937（昭和12）年6月に乾岔子島事件（カンチャーズ島）事件（<a rel="noreferrer noopener" title="Wikipediaで見る" href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E5%B2%94%E5%AD%90%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6" target="_blank">Wikipediaで見る</a>）が発生します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>この６月にソ満国境のアムール河の中にある小さな島をソ連軍が占領したとのことで、我が部隊に出動命令が来て連隊長以下全員出動しました。この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました。この日の夜、近くの集落に野営しましたが、隊長以下全員死んだように寝てしまいました。この夜、私は夜10時から２時間歩哨（寝ないで番をする役）をしましたが、交代時間になっても誰も来ません。夜が明けるまで一人で寝たり起きたりしながら歩哨を務めましたが、もしソ連軍が攻めてきたら我が部隊（約500名）は全滅になるところでした。</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏にとっての最初の戦争体験となったカンチャーズ島事件について、『戦史叢書　第027巻　関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』には以下のような記述があります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>そのころ満州の北部正面の防衛を防衛を担任していたのは、前年五月渡満した第一師団（長　河村恭輔中将－15期）で、当時その主力を斉斉哈爾（チチハル）に集結し、一部を北安に配するとともに、また黒竜江岸の要地にはそれぞれ一小部隊を出して監視に当たらせていた。（中略）</p><p>前述の事態を知った関東軍（軍司令官　植田謙吉大将）は、六月二十二日、軍参謀長（東條英機中将）電により中央部に報告するとともに、第一師団に対し有力な一部を現地に派遣するように命じ、また取りあえず満州国外交部を通じ、哈爾浜在住のソ連総領事に対し申し入れの措置を執った。二十四日参謀本部は次長（今井清中将－15期）電をもって東條軍参謀長にあて「満州領たることが明らかな領土が、ソ連によって不法に占拠されることは、将来に及ぼす影響が重大と思われるので、今後とも適宜の処置によって旧態の保持に努められたし」と指示し、強い態度に出ることを要求した。</p><cite>『戦史叢書　第027巻　関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』より　<a href="http://www.nids.mod.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="防衛研究所">防衛研究所</a>「戦史資料・戦史叢書検索」</cite></blockquote>



<p>ここで記されている第一師団に加藤馨氏が所属する歩兵第49連隊が含まれていました。北安に配されていた主力部隊として、「有力な一部を現地に派遣」され、「旧態の保持に努められたし」と命じられます。</p>



<p>満州国とソ連の国境では、両国間で国境の解釈をめぐり紛争が頻繁に発生していました。6月のカンチャーズ島事件では、満州国が自国領土としていたカンチャーズ島に約20名のソ連兵が上陸。満州国の点灯夫や採金夫を退去させ、続いて黒竜江のもう少し上流にある島でも立ち退きを要求します。関東軍としては、ソ連がこの2島を足場にすると満州国への侵攻が容易になるため看過できない事態でした。</p>



<p>強い対応を命じられたものの、現実に派遣された部隊は、加藤馨氏の証言によると「この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました」。地図を見ると距離は250㎞ほど、歩兵は装備を担いで徒歩で急行するのですから疲労も当然でしょう。とても「今後とも適宜の処置によって旧態の保持に努め」られるような状態ではなく、ソ連軍が攻めてきたら全滅しかねなかったのです。</p>



<p>その後、武力行使を中止するようにという示達が関東軍司令部に届きますが、現場に伝わる前に前線で動きが生じます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　現地においては関東軍の意図に基づき、第一師団河村中将は、旅団長の指揮する歩兵第四十九連隊の歩兵約一大隊（歩兵砲属）、砲兵一大隊、工兵一中隊を期間とする部隊を河岸に近く展開し、侵入するソ連の艦艇に対して随時これを射撃するとともに、ソ連が不法占拠した島を奪還する準備を進めていた。まさに一触即発の状態にあった時、中央部から武力行使中止の意が伝えられ、植田関東軍司令官は第一師団長に対しその旨を命令した。<br>　しかるにその命令と相前後して、六月三十日ソ連の砲艇三隻が両島の南水道に侵入し来たり、急速度をもって遡航しつつ、わが部隊に対し射撃を加えた。これに対し、わが歩兵部隊は、自営防衛のため反射的にこの砲艇に砲火を浴びせ、たちまち一隻を撃沈し他の一隻に損傷を与えた。<br>　現場の空気は一瞬緊迫するに至ったが、その後、日ソ両軍とも冷静な態度を維持し、事件はそれ以上拡大しなかった。</p><cite>『戦史叢書　第027巻　関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』より　<a href="http://www.nids.mod.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="防衛研究所">防衛研究所</a>「戦史資料・戦史叢書検索」</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏は、偕行社刊『偕行 平成24年6月号』に寄せられた「陸軍墓地シリーズ第30回 甲府陸軍墓地」の記事について偕行社に質問状を送ったことがあり、その中で「カンチャーズ島事件でソ連の船舶１隻撃沈というのは誤りで、撃沈していないのではないか」と指摘しています。これに対し偕行社は戦史叢書の記述を紹介し、「この記事で間違いないものと思われます」と回答しています。事実関係はともかく、戦史叢書に「自営防衛のため反射的にこの砲艇に砲火を浴びせ、たちまち一隻を撃沈し他の一隻に損傷を与えた」と書かれているような勇ましい戦いではなかったものと推測されます。</p>



<p>父が急死したため師範学校への進学をあきらめざるをえず、「当時は私のように村の小学校卒業の人の行く先は警察学校に入って巡査になるか、軍隊に入って軍人になるか」（回顧録より）だったため、軍人の道を選んだ加藤馨氏。1月に入隊し、2月に前線に移動して3ヶ月の訓練を受け、すぐ6月に派遣された最前線で、戦争の現実を目の当たりにしたのでしょう。幸運にも生き延びた加藤馨氏は、その後下士官を養成する教導学校に応募します。その後暗号担当となり、航空通信将校への道を進みました。一方、歩兵第49連隊は、1944年にレイテ島で大部分が壊滅します。最初の戦争体験は、決して軍人としての成功を志すようなものではなかったものの、加藤馨氏のその後の人生に大きな影響を与えた出来事と言えるでしょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="引退後も戦争と向き合う">引退後も戦争と向き合う</h2>



<p>カンチャーズ事件に続き、翌年には満州国東南端国境で「張鼓峰事件」が発生。さらにその翌年、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった「ノモンハン事件」が発生します。その満州には、一般開拓22万人、義勇隊員10万人、計32万人が「分村移民」として日本から送り込まれました。国策として、貧しい農村が指名され、満州国への入植を求められ、すでに不安定だった国境付近に移住したものの、戦後取り残された日本人が多数います。</p>



<p>歴史から取り残された長野県泰阜村の「中国残留婦人」の帰国事業をNHKの番組で知った加藤馨氏は、その支援に継続的に取り組みました。戦後45年以上が経過する中、引揚者等援護事業は予算が減らされ、特に残留婦人に対する費用は、10年おきに2回のみの一時帰国、しかも往復の旅費のみと支援が限定されていました。自身も赴任したエリアでの悲しい事実を知り加藤馨氏は心を痛めたのでしょう。金銭面の支援だけでなく、帰国事業の中心にいた中島多鶴氏（自身も同村の満蒙開拓団の一人）と手紙のやりとりを重ねました。また、残留婦人と直接やりとりした手紙も残されています。</p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0328-e1643258467545.jpg?resize=430%2C615&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1290" width="430" height="615" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0328-e1643258467545.jpg?w=559&amp;ssl=1 559w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0328-e1643258467545.jpg?resize=210%2C300&amp;ssl=1 210w" sizes="auto, (max-width: 430px) 100vw, 430px" /><figcaption>加藤馨氏が1990年11月に購入した「忘れられた女たち　〜中国残留夫人の昭和〜」（日本放送出版協会刊）。文字は加藤馨氏によるメモ書き</figcaption></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-full"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" width="738" height="541" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0329-1.jpg?resize=738%2C541&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1307" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0329-1.jpg?w=738&amp;ssl=1 738w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0329-1.jpg?resize=300%2C220&amp;ssl=1 300w" sizes="auto, (max-width: 738px) 100vw, 738px" /><figcaption>加藤馨氏は赤線を引きながら本書を読んだ。掲載されている地図には北安、牡丹江という軍で赴任した地名にも赤線が引かれている。カンチャーズ島は北安の北、黒河から少し南に下ったあたり</figcaption></figure></div>



<p>1982年にカトーデンキ販売の社長の座を息子・修一氏に譲り、1995年に名誉会長に退いた加藤馨氏。中国残留婦人の番組「忘れられた女たち～中国残留婦人の昭和～」がNHKで放送されたのは1989年と思われます（同名書籍は1990年刊）。カトーデンキの経営から退いた加藤馨氏は、引退後も自身が体験した戦争と向き合い続けました。戦後の加藤馨氏は間違いなく成功者ですが、過去を賛美し現在を嘆くような姿勢はなく、あの戦争がなんだったのか、真実を突き詰め、困っている人がいれば寄り添い手を差し伸べました。その精力的な活動は、引退した成功者の「社会奉仕活動」という簡単な言葉で片付けられるものではありません。このような活動も加藤馨氏の思想を理解する上で欠かせない要素です。</p>



<p>自分の人生に活路を見出すべく軍に入隊した加藤馨氏ですが、最初の戦争体験で見た風景は原体験として強く印象付けられたのでしょう。カンチャーズ事件に関する回顧録の記述は以下のような文章で締めくくられています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>私は今でもこの日の苦しさは死ぬより苦しい１日で人間は疲労困憊したら駄目と悟りましたので以後軍人生活中この教訓を守りました。この頃満州は春で野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました。その後ソ連軍が撤退したので我が部隊も元の地に帰りました。</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p></p>



<p></p>



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