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	<title>創業期 - （株）流通ビジネス研究所</title>
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	<description>　　家電流通のプロフェッショナル</description>
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	<title>創業期 - （株）流通ビジネス研究所</title>
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		<title>オーディオに強かった加藤電機商会</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 May 2022 08:46:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[ステレオ電蓄]]></category>
		<category><![CDATA[加藤電機商会]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>以前もお伝えしたように、退任した今も引き続き加藤馨氏の経営哲学の研究のため、柳町事務所に時々足を運んでいます。古い写真を整理していると、撮影時期が不明なものも少なくありません。そこで、写っている周囲の風景、あるいは服装な &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1857" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">オーディオに強かった加藤電機商会</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">以前もお伝えしたように、退任した今も引き続き加藤馨氏の経営哲学の研究のため、柳町事務所に時々足を運んでいます。古い写真を整理していると、撮影時期が不明なものも少なくありません。そこで、写っている周囲の風景、あるいは服装などから、時期や撮影場所を探ることになります。社員旅行やメーカーの招待会など、日時や場所が明確なものをまずは年表にすることで、単に時期や場所を特定するだけでなく、撮影された時期の会社の状況や市場環境などを理解できるケースもあります。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そのような古い写真から今回紹介するのが、下の写真です（アイキャッチ画像と同じですが、タブレットやスマホではアイキャッチ画像が表示されないため、再度掲載しています）。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" fetchpriority="high" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/05/page054.jpg?resize=604%2C829&#038;ssl=1" alt="昭和37年前後に講演する加藤馨氏" class="wp-image-1858" width="604" height="829"/><figcaption>昭和37年前後に撮影された講演する加藤馨氏。44歳前後と思われる</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">この写真は、見てのとおり「第６回ナショナルラジオ販売推進懇談会」で講演している加藤馨氏です。「いはらきホール」という名称から、会場は現在の茨城新聞社の関連施設でしょうか（調べてもホールを特定できませんでした。ご存知の方はぜひ教えてください）。イベント名でも調べましたが、なにせ古い時代で特定できません。そこで加藤馨氏の背後にある黒板の文字から時期を特定します。ナショナル「HE-38」は1962（昭和37）年のナショナルのカタログに掲載されていることが分かりました。その下のビクター「STL-34」は、1961（昭和36）年のカタログに掲載されています。イベントの主催がナショナルラジオなので、昭和36年頃の写真と考えて良いでしょう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">講演台の上を見ると、話者が喉をうるおす水が置かれており、ある程度長い時間加藤馨氏が語っていたと考えられます。よく見ると加藤馨氏の上着の左胸にナショナルのマークらしきものも見えます。つまり、状況としては、ナショナル販売店向けに、加藤馨氏が販売好調店の店主として、ナショナル「HE-38」の売り方を、競合機種であるビクター「STL-34」やコロンビア「531」と比較しながら、説明しているということになります。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ちなみに価格はナショナル「HE-38」が5点一式で現金正価3万9500円（加藤馨氏の背後左側のステレオ）。一方、ビクター「STL-34」2点一式で現金正価3万9800円（同じく右側のステレオ）。価格帯も近い両機種は、見た感じもよく似ています。</p>



<p class="wp-block-paragraph">背景に写っているオーディオは「ステレオ電蓄（電気蓄音機）」と呼ばれた機器です。1960（昭和35)年にＮＨＫや民放4社がカラーの本放送を開始し、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「三種の神器」と呼ばれるようになります。カラーテレビの登場を受け、買いやすい価格になった 白黒テレビが急速に普及し、1962年度末にはテレビ受信契約件数は約1400万件、世帯普及率は65％に達します（国勢調査対象世帯ベース）。そのような中、次の人気商品として期待されたのが「ステレオ電蓄」です。写っている家具調ステレオは、富裕層を中心に人気を集めました。メーカーとしてもステレオの販売に注力しており、写真のような販売研修会が行われたのでしょう。ちなみに、ステレオ対応の電蓄を1957年に日本で初めて販売したのがビクターです。松下電器は、オーディオメーカーであるビクターを追いかける立場だったのでしょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading">1962年当時の加藤電機商会</h2>



<p class="wp-block-paragraph">当時の有限会社加藤電機商会について、新聞などの記事はほとんどありませんが、有力店だったことは分かります。「ナショナル有力連盟店奥様ご招待会」「関東地区有力連盟店本社ご招待」など様々な研修会や招待旅行の写真が残されています。1963年には「ナショナル10年連続優秀連盟店様謝恩会」に招かれ、松下幸之助会長の話を聞き、本社と京都御所を見学しています。メーカー各社が電器店の系列店化を進めたのもこの時期で、加藤電機商会は1964（昭和39）年にナショナル系列店になります。</p>



<p class="wp-block-paragraph">また、講演当時の1962年（昭和37）年は根積町（現 柳町）の店舗はまだ平屋（コンクリート3階建てに建て替えたのは1964年1月）。長男の加藤修一氏は15～16歳。店舗全体は写っていませんが、１～2年前の中学生時代の加藤修一氏の写真に、当時の店舗の看板が写っていて雰囲気がわかります。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/05/13-04.jpg?resize=636%2C440&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1861" width="636" height="440"/><figcaption>中学生の頃の加藤修一氏。まだ平屋だった根積町の店舗前でカブにまたがっている</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">店頭の看板にもナショナルの「テレビ」「ラジオ」の文字が見えます。加藤電機商会は1964年に店舗をコンクリート3階建てに建て替え、さらにはナショナル専売店になります。しかし、1967年1月には「東日電チェーン」に加盟し、混売店へと舵を切ります。当然、松下電器からは抵抗されましたが、県内でもトップクラスの販売力があったため、混売店となってからも、ナショナルとの取引や研修会への参加は継続されました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その後、カトーデンキ、カトーデンキ販売と社名がかわり、1988年にはついに株式を店頭公開します。その店頭公開パーティーの席上、当時の加藤修一社長は次のような挨拶をしています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　（昭和）63年6月10日現在の資本金は、9億7854万円であり、発行済み株式数は499万株であります。役員は取締役が6名、監査役が2名、従業員数は266名であります。本社は水戸市柳町1丁目にあり、店舗は茨城県に24店、栃木県に3店、合わせて27店、その他に水戸市、日立市、土浦市、鹿島地区にそれぞれサービスセンターがあります。</p><p>　事業内容を品種別売上高でみますと、昭和62年9月期ではオーディオ・カラーテレビ・VTRなどのAVC商品が54.2%、冷蔵庫・電子レンジ・洗濯機・クリーナーなどの白物家電が13.7%、エアコンなどの季節商品が11.1%、その他21%となっております。</p><p>当社の特徴として（中略）、第四は、AVCつまり、オーディオ・ビジュアル・コンピューターに強い販売力を発揮していることであります。</p><cite>1988年　加藤修一社長による会社説明講演のメモより</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この会社説明の講演でもカトーデンキ販売の強みとして、「AVCに強い販売力を発揮している」ことが挙げられており、実際、1987（昭和62）年6月に初めて県外に出店したのも「宇都宮AVセンター」でした。戦後ラジオ修理店として開業した加藤電機商会の成長を支えたのが、AV商品の急速な普及だったのです。ケーズデンキに限らず、家電量販店の歴史において、テレビやオーディオ、そしてコンピュータは急成長を支える重要な商品となりました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">1962（昭和37）年頃に写された加藤馨氏が講演する姿は、当時数多くの電器店があった中で、厳しい競争を生き残り、量販店として飛躍的な成長を遂げていった会社の原風景と見ることができるかもしれません。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1857">オーディオに強かった加藤電機商会</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>加藤馨氏と水戸の結びつき</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Feb 2022 04:27:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955（昭和30）年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">加藤馨氏と水戸の結びつき</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph"><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955（昭和30）年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千木良となっています。千木良村の農家に生まれ、成績優秀で鎌倉の師範学校への入学が決まっていた加藤馨氏ですが、父が急死したため進学をあきらめます。家業である農業を約5年手伝っていましたが、次兄の「農業の手伝いはやめて自分の将来の仕事に就かせないと先が大変になる」との勧めもあって軍人になりました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">昔は長男が家督を継ぎ、それ以外の兄弟は他家に婿入りしたり、あるいは自分の人生を切り開いていくなど独立する必要がありました。加藤馨氏にとって自分の人生の拠点となったのが、ケーズデンキ創業地である茨城県の水戸です。加藤馨氏と水戸の縁は、1941年12月25日の水戸陸軍航空通信学校への入学から始まります。翌年8月25日に卒業すると同時に加藤馨氏は通信学校用員となり、同年10月に新たに編成される第６飛行師団本部通信隊用員となりました。第6飛行師団はソロモン・ニューギニア作戦の指揮に当たる第8方面軍隷下に11月に編入され、ニューギニア東部で航空戦や船団の護衛を担当します。加藤馨氏も本部通信隊用員として着任するため、10月下旬に東京芝浦港を出航し、4日かかって本部のあるラバウルに移動しました（翌年4月に司令部をウェワクに移動）。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ラバウルで通信隊用員として任務にあたる中で、1943（昭和18）年8月に隊長から9月に実施される航空士官学校の学生科入学試験を受験するよう命を受けます。後日、第6飛行師団で受験した32名中１位の成績で合格。大型無線機の移設任務などを経て、同年10月1日に埼玉県豊岡町にある陸軍航空士官学校に入学。卒業後、通信科学生は全員水戸の陸軍航空通信学校で1か月間の教育があり、通信科学生20名のうち加藤馨氏を含む3名がそのまま水戸の陸軍航空通信学校付きを命じられました。加藤馨氏は少尉となり、下士官学生の教育にあたり、その後1945（昭和20）年に中尉に昇格して電波兵器教育隊で教官を務めます。そして、航空通信学校に事務員といて勤めていた芳江さんと結婚式を挙げ、加藤馨氏は電波兵器教育隊の教官として水戸で終戦を迎えました。加藤馨氏は暗号班や通信将校だったこともあり、早くから日本の敗戦を予想していたはずですから、芳江さんと結婚し、水戸で戦後の人生を歩んでいくことを決意していたのかもしれません。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="ユリ根の栽培-輸出という縁">ユリ根の栽培・輸出という縁</h2>



<p class="wp-block-paragraph">戦後、加藤馨氏は水戸でラジオ修理店を開業し新たな生活を始めますが、神奈川から来た「よそ者」としてボロ家を借りるにも苦労しました。しかし、水戸との縁はなにも陸軍航空通信学校だけではありません。調べると奇妙な縁が見えてきます。</p>



<p class="wp-block-paragraph">冒頭に記したように加藤馨氏の実家は神奈川県の千木良村の農家で、父は千木良村で多くの人に頼られる存在でした。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　関東大地震の後３年くらいは、この復興事業で日本の景気は良かったのですが、昭和のはじめの頃になると、全国的に不景気になり、千木良でも生活できない家庭が続出しておりました。当時村では養蚕で繭を作ってこれを売り、工場ではこれを生糸にしてアメリカに輸出して国の輸出の50％くらいを占めていましたが、アメリカが不景気になって生糸の値が半値に下がってしまったのです。<br>　この頃、私の父はどこから聞いたのかわかりませんが、鉄砲百合を村で１人作っていたのが当たって、大層高く売れて5000円（今の物価では4000万円くらい）になり、村中の評判になって、夜になると村の人々が毎日のように鉄砲百合の作り方をききに来ていました。３年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです。父は何につけてもとても熱心でしたので加藤家ではこの鉄砲百合の栽培で成功して（以下略）</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">テッポウユリは、もともと日本では食用として栽培されていましたが、明治６年（1873年）にウィーン万国博覧会に出品され話題となって以降、欧米で大人気となりました。真っ白なユリは、キリスト教において純潔を象徴する花であり、聖母マリアを象徴する花とされていることが人気の理由です。人気となった日本のユリ根は欧米への輸出が盛んになります。<a href="https://www.jacar.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="国立公文書館アジア歴史資料センターのサイト">国立公文書館アジア歴史資料センター</a>では、「ユリ根の輸出」という項目で以下のように紹介しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>明治41年（1908年）に日本から輸出されたユリ根は1200万個近く、金額で45万円近くに上っていました。また、国別の輸出統計からは、そのほとんどが欧米諸国に運ばれたこと、特にイギリスとアメリカ合衆国への輸出が抜きん出ていたことがわかります。輸出港別の統計からは、横浜港からの輸出が９割以上を占めていたことがわかります。なお、横浜におけるテッポウユリのユリ根には、一本あたり2円50銭～5円の値が付いています。</p><cite>国立公文書館アジア歴史資料センター「<a href="https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p02.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="ユリ根の輸出 ～欧米で愛好された日本の草花～">ユリ根の輸出 ～欧米で愛好された日本の草花～</a>」</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏の父も、おそらくは横浜港から輸出されるユリ根のことをどこかで耳にして、栽培を始めたのでしょう。しかし、「３年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです」と加藤馨氏が振り返っているように栽培は簡単ではなかったようです。生糸の価格暴落が発生したのは1919（大正８）年前後、第一次世界大戦が終わった後です。その後、1923（大正12）年の関東大震災で震災恐慌が起き、1927（昭和2）年には金融恐慌が発生。そのような厳しい経済環境下、ユリ根栽培の成功により、加藤馨氏の２人の兄は農学校へ、一番上の姉は和裁の学校へ、すぐ上の姉は師範学校へ入学できたそうです。末っ子の加藤馨氏も師範学校への入学が決まっていましたが、父の急死により進学をあきらめざるをえませんでした。</p>



<p class="wp-block-paragraph">後年、経営から退いた加藤馨氏は、故郷千木良の老朽化した公民館を、1億円の私財を投じて建て替えます。落成した「相模湖町立千木良公民館」の正面入口の上には、相模湖町の町章と並んでテッポウユリの絵が掲げられていました（市町村合併され、現在は町章とユリの絵は掲げられていません）。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/02/img_0389.jpg?resize=551%2C734&#038;ssl=1" alt="千木良公民館完成式典のパンフレット" class="wp-image-1363" width="551" height="734"/><figcaption>千木良公民館の完成式典パンフレット。公民館入口上にテッポウユリの絵が掲げられている</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">千木良村の加藤家を支えた輸出用ユリ根の栽培。実は、徳川慶喜公もユリ根の栽培、輸出を手掛けていたそうです。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家に養子入りした後、江戸幕府最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還で将軍職を退いたのち、「自らクワを持って堀り、ユリを栽培し、外国へ送るビジネスを始めた」（明治７年の新聞）と報じられています。当時の慶喜公はまだ30代後半。静岡に居を移し、政治にかかわることなく、さまざまな趣味に没頭していました。慶喜公のユリ輸出ビジネスが成功したかどうか定かではありませんが、明治７年はウィーン万博が開催された翌年の取り組みですから、先見の明があったと言えるでしょう。水戸という新天地に居を構えて家電流通事業を興した加藤馨氏が、慶喜公とユリ栽培・輸出ビジネスでつながっているのは奇妙な縁と感じられます。今回の記事は加藤馨氏の経営思想とは直接関係ありませんが、ちょっと面白いエピソードだったのでご紹介しました。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/02/img_0390.jpg?resize=567%2C449&#038;ssl=1" alt="昭和14年当時のユリ畑" class="wp-image-1365" width="567" height="449"/><figcaption>1939（昭和14）年8月の千木良のユリ畑。写っているのは家業を引き継いだ長兄・加藤操氏</figcaption></figure>
</div><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357">加藤馨氏と水戸の結びつき</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>元台町で開業した直後の馨氏</title>
		<link>https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1070</link>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 20 Oct 2021 07:53:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[元台町]]></category>
		<category><![CDATA[最初の店舗]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 研究所では、加藤馨氏が残されたたくさんの古い資料を整理しています。中でも多いのが書簡です。加藤馨氏は、親族、故郷の知人や恩師、かつての同業者、ある &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1070" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">元台町で開業した直後の馨氏</span></a></p>
<p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1070">元台町で開業した直後の馨氏</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph"><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">研究所では、加藤馨氏が残されたたくさんの古い資料を整理しています。中でも多いのが書簡です。加藤馨氏は、親族、故郷の知人や恩師、かつての同業者、あるいは戦友たちと手紙のやり取りをしていました。そのやり取り一つひとつに加藤馨氏の人柄を感じさせるエピソードがあります。その中から、元台町に最初にラジオ修理店を開業した1947（昭和22）年～1950（昭和25）年頃のエピソードを紹介しましょう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">手紙は、茨城県警で交通係長、刑事課長、刑事官、警察署長などを務められ、その後作家になられた菊池興安さんから加藤馨氏あてに書かれたものです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その前に、加藤馨氏が戦後商売を始めた元台町の店舗について回想した文章を紹介しましょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　顧みますと、60年前の昭和22年3月6日に水戸市の場末で戦災で焼け残った家を借りて小さな電機店が開店しました。それは大変なボロ家で屋根と柱しか残ってない家でした。それを改修して３坪の店舗と９坪の住居を作りました。この家は当時戦後の住宅難の時代でも借り手のないボロ家でしたが、このボロ家が幸いして私が借用することができました。<br>　当時私は元職業軍人で終戦で失業者になって暮らしに困っていたので、何とか生活できればよいと考えて借りました。ところがこのボロ家が宝の山になろうとは予想もできませんでした。この店を開店して私たち親子３人の生活ができるようになり心から喜びました。私は今でもこのボロ家を私に貸してくださった家主に感謝しております</p><cite>ケーズホールディングス60周年創業祭 加藤馨名誉会長の講演草稿より</cite></blockquote>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/10/19471212_mito_motoyoshida_USA-R678-12katodenki.jpg?resize=734%2C705&#038;ssl=1" alt="1947年に米軍が撮影した水戸の航空写真" class="wp-image-1075" width="734" height="705"/><figcaption>米軍撮影の1947年12月12日の水戸市元吉田付近の空中写真（提供：国土地理院）。<br>下の大きな四角い区画は水戸南飛行場（陸軍航空通信学校跡）</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">まだ戦争の爪痕が色濃く残る中、家族と生活していくためになんとか借りたボロ家、これがケーズデンキの始まりです。この時代の加藤馨氏の暮らしぶりを伝える資料（文章や写真）はあまり残っていません。菊池興安氏の手紙には、その当時の様子が書かれていました。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　当時の貴店は、入口が高い敷居で、中が土間だったと思います。ラジオ等が並んでいました。<br><strong>　会長さんが、中で仕事をしており、奥様が店の清掃をしており、二人の息子さんが敷居をまたいでのりこえ、出たり、入ったりして遊んでいました。</strong><br>　そのころ電気関係の店はなかったので、親に頼まれて色々と買物をしました。そのとき私の住所を聞かれたので、吉田だと言うと、「私も吉田の通信学校にいたことがある」と言われたように記憶しております。<br>（中略）<br>　あるとき、私が歯の治療のために江橋歯科の待合室にいると、そこへ会長さんが来られて、歯科の先生に「<strong>私はいつまでもこの台町にいるつもりはない。別の場所へ出て、必ず店を大きくして見せますよ</strong>」と言っておられました。<br>　すると歯科の先生も、「うん、実は私も同じ考えだよ。別の土地を求めて開業するつもりだ」とのことで、このときの二人の会話は忘れられませんでした。</p><cite>1992年1月に菊池興安氏が加藤馨氏に送った手紙より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">手紙によると、加藤馨氏も歯科の先生も夢を実現しており、特に会長（加藤馨氏）は51店舗を展開する発展ぶりで、菊池氏は「敬意を表すものであります」と感想を記しています。</p>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏の回想録にも、借家ではなく、早く自分の店を持ちたいと書かれていました。しかし、「別の場所に出て必ず店を大きくして見せますよ」という強い決意は、この手紙で初めて知りえた加藤馨氏の回想録にも、この手紙で初めて知ることができた事実です。水戸から石岡まで物件を探し回り、苦労してやっと見つけた借家ですが、加藤馨氏の視点は先を見据えていました。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/kato-keiei.com/wp-content/uploads/2021/10/img_6318-1200x594.jpg?resize=691%2C342&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1077" width="691" height="342"/><figcaption>元台町店舗時代の加藤家。左の写真の女性は加藤馨氏の妻・芳江氏で、背後に当時の店の様子が写っている</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">預貯金を全部はたいて、根積町（現在の柳町）の土地を手に入れたのは1950（昭和25）年のこと。それから新しくできた住宅金融公庫法により建築資金を借り入れ、1951（昭和26）年6月に店舗兼住居が完成。6月26日に根積町店を開店します。これが「事業拡大の第一歩」となったのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ちなみに、加藤馨氏はその後カトーデンキを多店舗展開させますが、この拡大路線について1982（昭和57）年に加藤修一氏に社長の座を譲った際の講演で次のように語っています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>昭和43年に沼生東日電チェーン会長のすすめで東日電チェーンに入会したわけですが、<strong>それまでは多店舗化をはかるとか経営の拡大をはかるといったことは毛頭考えていませんでした。むしろ楽しく、家族円満に過ごせればいいと思っていました。</strong>ところが沼生さんから「そんなことではやがて大型店に喰われてしまう」と強くいわれましたので、それがきっかけで気持ちを切り替え、拡大への経営路線を歩むことにしました。<br>このため先進大型店を見学させてもらい、勉強しました。</p><cite>ラジオ電化新聞 昭和57年10月4日号 記事より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">家族を大切にした加藤馨氏。根積町に建てた自分の店舗で成功し、十分満足していたようです。しかし、時代は、今の事業のまま留まることを許さない高度成長期を迎えます。世の中が豊かになるにつれ、事業も厳しい競争環境にさらされていきます。先に事業拡大に舵をとった同業ヌマニウ（栃木県を中心に50店舗を展開した電気店）の沼生社長のアドバイスを聞き入れ、多店舗化に踏み切る決断がなければ、柳町の１店舗だけで終わっていたかもしれません。</p>



<p class="wp-block-paragraph">正しいと思ったアドバイスは素直に聞き入れる。だからといって他人の意見に従うだけでなく、自身でしっかり判断して「正しい」と思ったことをしっかり貫く。自分一人の力量だけでなく、幅広い情報や意見を取り入れ、視野を広げた上で経営判断をしてきたことが、後のケーズデンキの発展につながったのでしょう。このような姿勢は、若くして社長を引き継いだ加藤修一氏にもしっかり受け継がれています。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1070">元台町で開業した直後の馨氏</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>創業期の写真整理</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 May 2021 07:01:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[ラジオ修理]]></category>
		<category><![CDATA[戦後の人生]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 当研究所において、古い資料の整理も重要な仕事です。戦時中～創業期の写真だけでもかなりの量があります。背景や人物などを比較しながら分類します。加藤修 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/611" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">創業期の写真整理</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph"><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">当研究所において、古い資料の整理も重要な仕事です。戦時中～創業期の写真だけでもかなりの量があります。背景や人物などを比較しながら分類します。加藤修一氏が子供だった頃の写真は風景、あるいは創業当時の社員の顔などを加藤修一氏に確認してもらいながら撮影時期や撮影場所を特定しています。</p>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏の回顧録に以下のような一節があります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　1日も早く店を借りて電器店を始めたいと考えて水戸から石岡迄の間の貸し店舗を自転車で探しましたがなかなか見つからずで1年たってしまいました。こんな時にふと気付いたことがあり、これは芳江の家から500メートルくらい先の水戸市元台町五丁目の薬王院というお寺の入口の近くでした。この家は屋根と柱しかなく2戸建てで平屋でした。（中略）家を直してこの家をお返しする時には直したままで無償で差し上げて、月に家賃を70円払いましょうと申し出ました。こんな話し合いをして私はこの家に１日おきのように伺い、28回も行く内に先方も芳江の家が近くにあることや私が通信学校の将校だったことを知って信用して、借りることができました。<br>　この屋根と柱しかないボロ家が私にとっては戦後の人生を開く第一歩になりました。この家は昭和26年6月20日に今の根積町に家を建てて移転するまで、生活と事業の拠点として４年４ヶ月生活し、この間に修一も幸男も生まれました。最貧の暮しの中に、我が人生にとっても役に立った借家だったのです。月に70円で借りてましたが経費を通算するとお返しするまでに月当り1,010円になりましたが、有難いボロ家だったのです。</p><p>　このボロ家を芳江の父に直してもらって、材料の板やクギ代で約３万円かかり昭和22年の２月末にできあがり３月１日に引越しました。修一はまだ11ヶ月でした。開店といっても90㎝×180㎝のトタン板に加藤電機商会ラジオ修理店と書いてあるだけでしたが、当時はラジオの修理をする店が少く部品も不足で修理出来ないラジオが沢山あったらしく、近所からも下市の方からも修理品を持参する人も多く月平均約７０台位有りましたので、部品代の他に修理工賃を100円ずつ頂きましたので当座の生活は何とか暮せるようになりました。</p><cite>加藤馨氏手稿「回顧録」より　※旧仮名遣いを含め、読みやすく一部表記を修正しています</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">　写真を整理していて、このボロ家と呼ばれていた元台町の家を直し、生活を始めた当時の写真が見つかりました。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" width="640" height="1024" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/05/img_5481-scaled-e1621563837726-640x1024.jpg?resize=640%2C1024&#038;ssl=1" alt="元台町の最初の家" class="wp-image-607"/><figcaption>昭和22年4月7日に家族で記念撮影した写真</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">妻 芳江氏の実家で、道端に看板を出しただけのラジオ修理業を始め、その後ようやく手に入れた念願の店舗です。回顧録の記述を見ると引っ越して１ヶ月くらいでしょうか。馨氏も書いているようにボロ家に板の壁を打ち付けて直した家ですが、それでも新しい生活を始める高揚感や決意が感じられます。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/05/img_5483-scaled-e1621563858994-1024x631.jpg?resize=635%2C391&#038;ssl=1" alt="初期の加藤電機商会の様子" class="wp-image-608" width="635" height="391"/><figcaption>次男の幸男氏が生まれた昭和23年9月以降、今の柳町事務所（当時の根積町）に引っ越す昭和26年6月より以前の写真と思われる。マツダランプとあるのは現在の東芝で、当時電球では圧倒的なシェアだった</figcaption></figure>
</div>


<p class="wp-block-paragraph">以前も記しましたが、陸軍将校として戦後を迎えた加藤馨氏は職業安定所から仕事を紹介してもらうこともできず、自らラジオ修理店を始めることでなんとか暮らしていきます。終戦直前に芳江氏と結婚し、また子供生まれて家族となんとか生活していかなければならない――これが加藤電機商会、後のケーズデンキの商売の始まりです。文字で読むだけではなかなかイメージできませんが、このように当時の写真を見ると、ケーズデンキの歴史、さらには家電業界の歴史や戦後復興の足取りなどさまざまなものが伝わってきます。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="戦後のラジオ修理需要">戦後のラジオ修理需要</h2>



<p class="wp-block-paragraph">テレビが登場するまで、ラジオは唯一のリアルタイムのメディアでした。しかし、戦前普及していたラジオも繊細で多くが失われます。戦後日本を統治したGHQは、さまざまな政策などを伝えるメディアとしてラジオの普及を命じます。とはいえ、戦後のメーカーに大量生産するだけの力はありません。そのため、古いラジオの修理するか、あるいは部品から組み上げるしかありませんでした。シャープ（<a href="https://corporate.jp.sharp/info/history/voice/year/y14.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="https://corporate.jp.sharp/info/history/voice/year/y14.html">終戦。戦後復興へ、まずは修理奉仕から</a>）のような電機メーカーだけでなく、石油販売の出光興産（<a href="https://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/0902/24/news005_2.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="https://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/0902/24/news005_2.html">ITメディア「決して人を切らなかった出光興産の創業者」</a>）なども戦後ラジオ修理にかかわっています。パイオニアのHPに掲載されている創業者 松本望の「<a href="https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/contents/kaikotozenshin/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/contents/kaikotozenshin/">回顧と前進</a>」には以下のような一節があります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　昭和21年度の生産計画の中にも、百万台近くは三菱、東芝、日立、富士通、日本電気、沖、岩通、住友通信、川西（現富士通テン）などの大手メーカーによる生産分が含まれていました。<br>　それはともかくとして、ほかに求める娯楽施設もなかったし、情報を手っ取りばやく得られるということで、誰もがラジオを欲しがっていたのです。<br>　どんな粗悪品でも、つくりさえすればひったくるように右から左へ捌（さば）けました。<br>　そんな状況ですから、軍隊時代に通信機や無線関係の兵役に従事していた人達までが、即席のメーカーに変身して町のラジオ屋さんに部品を買い集めにくる人が多く、また、一部のアマチュアの方達によるラジオの“組み立て屋さん”が繁盛しはじめたのも、ちょうどこの頃のことです。</p><cite>パイオニア 松本 望著「回顧と前進」第9話「終戦直後の業界」その１「<a href="https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/contents/kaikotozenshin/9/1/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/contents/kaikotozenshin/9/1/">終戦直後のラジオ生産　～ 悪戦苦闘の新生ラジオ産業 ～</a>」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">真空管が不足し、球なしセットが倉庫に山積みにされる一方、やっと真空管を入手して出荷しても、今度はコンデンサーがパンクして、手直しが必要になるなど、メーカーも大変だったようです。そのような中で、個人店も修理の腕が問われたのでしょう。先の写真にある加藤馨氏の姿は、ラジオを修理する職人といった雰囲気です。つくればどんどん売れていく、平気で粗悪品を売る人もいる中、加藤馨氏はしっかりお客様の信頼を得ていきます。</p>



<p class="wp-block-paragraph">当時は売る商品もまだ電球程度で、ほとんどなかったので、修理が主な収入源です。戦後復興が進み、徐々に商品が出回るようになって、ようやく家電“販売”店になっていきます。柳町（当時の根積町）の土地を全預貯金をはたいて購入したのは昭和25年9月19日。さらに住宅金融公庫から融資を受け、昭和26年6月15日に18坪（住居12坪 店舗6坪）の店舗兼住居が落成。6月20日に元台町のボロ家から引越します。根積町店舗での営業開始は6月26日のことです。その後、根積町店舗は鉄筋コンクリート3階建てに建て替えられ、これが現在研究所のある柳町事務所です。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/05/img_5461-scaled-1.jpg?resize=521%2C747&#038;ssl=1" alt="倉庫を増設する前の加藤電機商会の建物の写真" class="wp-image-612" width="521" height="747"/><figcaption>倉庫を増設する前の加藤電機商会の建物。昭和39年に鉄筋コンクリート3階建てに<br>建て替え、その後ナショナル系列店になった</figcaption></figure>
</div><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/611">創業期の写真整理</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>事業拡大の原点――柳町（根積町）</title>
		<link>https://ryutsu-biz.co.jp/archives/264</link>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 02 Feb 2021 07:14:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[柳町事務所]]></category>
		<category><![CDATA[根積町]]></category>
		<category><![CDATA[水浜電車]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨経営研究所は、水戸市柳町、もともとカトーデンキ本店として作られた加藤ビルで業務を行っています。もちろんコロナ禍もある昨今、私たちが事務所に出 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/264" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">事業拡大の原点――柳町（根積町）</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph"><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨経営研究所は、水戸市柳町、もともとカトーデンキ本店として作られた加藤ビルで業務を行っています。もちろんコロナ禍もある昨今、私たちが事務所に出社するのは週2回程度で、それ以外は資料などを持ち帰り自宅で作業している状況です。さて、これまでも触れていますが、この柳町事務所について、今回はもう少し詳しく説明しましょう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　戦後、加藤馨さんは、元将校だったため職業安定所で仕事を紹介してもらえませんでした。そこで、自営業を始めることを決めます。陸軍時代に習得した電気通信の技術を生かして、当時修理の需要が高かったラジオの修理を行う店を、昭和22年3月6日に開業します。場所は水戸市元台町５丁目。屋根だけのボロ家を、家主に６ヶ月に28回も伺ってなんとか借ります。そのボロ家を修繕して住居と売場（３坪）を設け、なんとか開業します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　開店といっても看板屋に90㎝×180㎝のトタン板に加藤電機商会ラジオ修理店と書いてあるだけでしたが、当時はラジオの修理をする店が少なく、部品も不足で修理できないラジオが沢山あったらしく、近所からも下市の方からも修理品を持参する人が多くて、月平均約70台くらいありました。部品代の他に修理工賃を100円ずつ頂きましたので当座の生活は何とか暮せるようになりましたが、当時は米が不足して配給という制度で毎日食べる量の１／２位しか配給はありませんでした。そこで、２ヶ月に１回くらい茨城町の芳江（※奥さん）の母の生家に物々交換に行ってこの不足を補いました。警察が取り締って見つかると没収されるという今の世では考えられないような社会でした。</p><cite>加藤馨氏直筆の「回顧録」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">商売は、主にラジオの修理で、売るものと言えば乾電池と携帯電灯、電球程度。以前紹介した<a rel="noreferrer noopener" href="https://ryutsu-biz.com/kato-keiei/archives/120" target="_blank">古い新聞記事</a>「いはらき 土地っ子」では、「自転車で各家庭を回り、ラジオの修理をやるとともに月二回ぐらいはリュックを背負って部品の買出しに東京まで出かけた。奥さんはミシンとあみもの、新聞配達までやって家計を助けた」と紹介されています。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そんな時、根積町（今の柳町事務所のある場所）に宅地の売り物があり、64坪を坪当たり1,300円、都合83,000円で昭和25年9月19日に購入します。当時はこの代金を払うのに全部の預貯金を集めてやっと支払ったそうです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">土地は買えたものの、家を建てるには当時坪当り2万円くらいかかり、何のあてもありません。すると、10月に入って読売新聞で住宅金融公庫法という法律ができて、費用の70％を融資すると言う記事を見つけます。「これだ！」と芳江さんと相談し、翌日午前中には水戸市南町の常陽銀行本店に行き、担当者と話します。しかし、担当者によると「この件が政府から常陽銀行に通知が来るのには30日から40日くらいかかる」というので、とりあえず住所と氏名を書いて帰ったそうです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">いつ通知が来るかと待っていると、11月末頃にようやく連絡があり、翌日銀行で必要書類を受け取り、12月初旬に申し込みました。「私は2番目で今回の締切りは12月20日で茨城署には12戸の割当とのことでした。12月21日に銀行に伺いましたところ、申込者は11名で申込者全員が借りられるとの嬉しい知らせを頂いてもう家ができると思い、こんなうれしいことはありませんでした」（回顧録より）と加藤馨氏は振り返っています。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" width="600" height="800" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/kenrisho-e1613979300506.jpg?resize=600%2C800&#038;ssl=1" alt="登記済権利証の表紙" class="wp-image-266" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/kenrisho-e1613979300506.jpg?w=600&amp;ssl=1 600w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/kenrisho-e1613979300506.jpg?resize=225%2C300&amp;ssl=1 225w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /><figcaption>根積町、後の柳町一丁目で、現在の柳町事務所の場所の登記済権利証。昭和25年8月19日に登記と書かれている</figcaption></figure>



<p class="wp-block-paragraph">そして、なるべくお金が少なく済むようにと考え、住宅12坪、店舗6坪、計18坪の平屋建てを建てることに決めます。翌年の昭和26（1951）年6月15日に18坪の家が落成し、6月20日に引越し、7月1日に新店舗での営業をスタートします。</p>



<p class="wp-block-paragraph">苦労して手にしたこの店舗に移転してから、売上は元台町の頃に比較して３倍と急拡大。従業員を雇うようになり、その数も10名に達します。そして、水戸税務署を退職し独立した税理士さんから、「店を法人組織にする方が将来発展できる」と提案され、昭和30（1955）年10月1日付で「有限会社加藤電機商会」を設立します。役員は加藤馨氏と妻の芳江氏の2人、2人で50万円と10万円を出し合って資本金は60万円。その後は社員採用も順調になり、昭和35（1960）年2月1日には社会保険に加入し、ようやく会社らしい形ができあがったのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">根積町の店舗は、その後昭和39（1964）年に、水戸市下市都市区画整理事業に併せて鉄筋コンクリート3階建てに建て替えられ、昭和42（1967）年には倉庫を増設。現在の加藤ビル（柳町事務所）の姿となります。売り場は1階で、２～３階には加藤家の生活スペースがありました。加藤電機商会がメーカー系列店を経て混売店となり、そして家電量販店へと発展していったのは、まさにこの建物からだったのです。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img data-recalc-dims="1" height="1200" width="915" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.com/kato-keiei/wp-content/uploads/2021/02/DSC_0001-915x1200.jpg?resize=915%2C1200&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-270"/><figcaption>「加藤電機商会」時代の店舗。倉庫が増設されているので昭和42（1967）年8月以降、カトーデンキに商号変更する昭和46（1971）年の間に撮られた写真と思われる</figcaption></figure>



<h2 class="wp-block-heading" id="店舗前を水浜電車が通る">店舗前を水浜電車が通る</h2>



<p class="wp-block-paragraph">加藤電機商会が元台町から根積町（現在の柳町一丁目）に移転した当時、店の前には路面電車が走っていました。水戸と大洗、那珂湊（現ひたちなか市）を結ぶ茨城交通水浜（すいひん）線（水浜電車）です。当時の登記済権利証の地積測量図にも、店舗の目の前の道に「根積町電車通」と記されています。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" width="684" height="800" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/kenrisho_sokuryo-e1613979288500.jpg?resize=684%2C800&#038;ssl=1" alt="土地権利書の地積測量図" class="wp-image-267" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/kenrisho_sokuryo-e1613979288500.jpg?w=684&amp;ssl=1 684w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/02/kenrisho_sokuryo-e1613979288500.jpg?resize=257%2C300&amp;ssl=1 257w" sizes="auto, (max-width: 684px) 100vw, 684px" /><figcaption>登記済権利証の中にある地積測量図。少々見にくいが、店の前の道路に「根積町電車通」と書かれており、水浜電車の線路を示す線が引かれている</figcaption></figure>



<p class="wp-block-paragraph">水浜電車は、水戸方面から水門橋で桜川を渡り、柳町事務所の前を通って、まっすぐ南に抜け、本町一丁目の常陽銀行下市支店で左折して、当時にぎわっていた「本町商店街」（現在のハミングロード５１３）へと向かっていました（このあたりの地理関係はGoogle Mapなどでご確認ください）。加藤電機商会の立地は、本町商店街から少し外れた場所でしたが、「店先のテレビの前には、力道山のプロレス中継のときなど大きな人だかりができ、水浜電車が警笛を鳴らしながらなんとか通っていた。テレビといっても製品はなくて、買い出しで手に入れたパーツを組み上げて作った、小さい画面のテレビだった」と、加藤修一氏は当時を振り返ります。この水浜電車は昭和41（1966）年に全線廃止となりました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">繁華街や中心地に店を出すのではなく、やや外れた場所に店を出す――柳町事務所の立地は、たまたま目に留まった場所だったのかもしれませんが、その後のカトーデンキの出店戦略に通じるものがあります。家電は日用品などとは異なり、比較的遠方からの集客が可能で、高単価な商品で、購入頻度がそれほど高くない分、信頼できるところで買いたいという気持ちが強い商品です。その後、モータリゼーション（自動車の普及）の拡大とともに、広い駐車場が必要な時代になり、車で行きやすく、停めやすい場所であることが重要になりました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その後、２店舗目としてオープンした駅南店も当初は決して賑いのある場所ではありませんでした。もしかすると、ロードサイド展開の原点は柳町本店や駅南店にあったのかもしれません。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img data-recalc-dims="1" height="529" width="940" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.com/kato-keiei/wp-content/uploads/2021/02/DSC_0034-1200x675.jpg?resize=940%2C529&#038;ssl=1" alt="水門橋" class="wp-image-269"/><figcaption>柳町事務所（加藤ビル）すぐ近くの水門橋は、かつて水浜電車が通っていた橋。写真の右側、道路の真ん中あたりに、短く当時の軌道が残されている。柳町事務所を訪れた際には足をのばしてみては？</figcaption></figure><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/264">事業拡大の原点――柳町（根積町）</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>誠意に勝る敵はなし</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 28 Jan 2021 03:15:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[礼儀]]></category>
		<category><![CDATA[訓話]]></category>
		<category><![CDATA[誠実]]></category>
		<category><![CDATA[誠意]]></category>
		<category><![CDATA[誠意に勝る敵はなし]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 「誠意に勝る敵はなし」――これは常々加藤馨氏が強調しつづけた商いの哲学です。2004年に子会社化した八千代ムセン電機に出向する役員が柳町事務所に挨 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/250" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">誠意に勝る敵はなし</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph"><strong>※本記事は「<strong>株</strong>式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">「誠意に勝る敵はなし」――これは常々加藤馨氏が強調しつづけた商いの哲学です。2004年に子会社化した八千代ムセン電機に出向する役員が柳町事務所に挨拶に来た際にも「誠実が一番の事業発展の道と話した」と加藤馨氏の日記に記されています。</p>



<p class="wp-block-paragraph">以下に、平成３（1991）年4月18日に開催された第四十四回カトーデンキ創業祭における、当時の加藤馨会長の訓話を紹介します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　社員の皆さん、本日は、県内はもとより遠く県外から、当社44周年記念式典に、早朝より多数ご参加頂きありがとうございます。</p><p>　早いもので、昭和22（1947）年3月6日わずか3坪のボロ家を借りて営業を始めてから44年の歳月がたちました。当時を振り返りますと、日本は戦争に負けて主要都市の約７割は戦災を受け、水戸市も焼け野原同然同様のありさまでした。創業当時は、売る物が極端に少ないため、いかに商品を仕入れるかが仕事みたいなものでした。どのような粗悪品でもよく売れましたが、その代表格は電球でした。当時の電球は、今では想像もできませんが、一週間ほどしか、もちませんでした。それでもローソクよりは明るく安全かつ割安であったのでよく売れました。</p><p>　このような状況の中でスタートし今日に至っているわけですが、<strong>私は商売において、儲けることも必要だが、世の中の人々のために役立つことが第一であるという心情をもって、今は亡き家内と一緒にやってまいりました。</strong>３坪の小さな店から、今は茨城県第一の売り上げを誇る家電量販店に発展した原動力は何かと申しますと、それは、仕事始めに唱和する<strong>「わが社の信条」</strong>及び四つのキャッチフレーズ、<strong>「品質がよい」「値段が安い」「サービスが良い」「安心してお買物のできる店」</strong>を社員全員が守り実行してきたことにあります。この考え方を、私は毎日の商売の中で会得しましたが、<strong>いまだにこれに勝る商い（あきない）哲学はないと確信していますし、真理である</strong>と思っています。</p><p>　皆さんは、三年程前に亡くなりましたが、松下幸之助先生という人をご存知だと思います。私はこの先生から講習会等で何度もお話を聞く会がありましたが、彼は人一倍頭脳が明晰、能弁家というわけではないが、非常に誠意にあふれた人でした。そういう人ですから、優秀な人材が彼のまわりに沢山集まりました。その優秀な社員の活躍で、松下電器は世界の松下に成長・発展したのはご存知のとおりです。</p><p>　皆さん、この例でおわかりのように、人間にとって一番大切なのは誠意です。誠意があれば、たとえ口下手であっても心が通じ、お客様にあの人から商品を買いたいと思われるようになります。“<strong>誠意に勝る敵はなし</strong>”という言葉がありますが、誠意こそ商売繁盛の基本です。また、人間は礼儀正しくなくてはなりません。なぜなら礼儀が誠意につながるスタートであるからです。礼儀正しくなければ誠意は通じないものです。</p><p>皆さん、礼儀正しく、誠意ある態度でこれからも頑張って下さい。</p></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">商売においては、儲けることも必要だが、世の中の人々のために役立つことが第一である――その思いで故・芳江さんとともに会社を大きくしてきたと加藤馨氏は振り返ります（馨氏と二人三脚でカトーデンキ発展に貢献された芳江さんは、カトーデンキが株式店頭公開を果たした昭和63（1988）年、病のため亡くなりました）。「<strong>誠意に勝る敵はなし</strong>」という言葉は、加藤馨さんが商売をする上でのモットーであり、会社を大きくした後に振り返ってからも「間違いなかった」と実感した商いの基本なのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏は、松下電器産業（現パナソニック）創業者である松下幸之助氏を引き合いに出します。松下幸之助氏は「人一倍頭脳が明晰、能弁家」ではないが「非常に誠意にあふれた人」だったからこそ、「優秀な人材が彼のまわりに沢山集まり」、その優秀な社員の活躍で「世界の松下に成長・発展した」と指摘します。組織は、トップのスタンドプレーで発展するものではありません。そもそも一個人の力で伸ばせる業績には限度があります。集団の力を発揮してこそ、力強く継続的に業績を伸ばすことができるのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">また、優秀な人間ばかりを集められるわけではないでしょう。優秀な人が集まるようにするには、「誠意」「努力」が必要です。さらには、集まった人たちが力を発揮する環境を整えることも大切です。特に小売業は必ずしも人材に恵まれた業界とは言えません。そこで、加藤馨氏は「適材適所」「分業」で個々人が力を発揮できるように努めました。また、社員を株主にし資産形成を可能にするなど、社員の人生設計を「誠実」に考えました。社員数がまだ少なかったころには、採用する社員の家族に挨拶に伺い、ご両親が安心して会社に子供を任せられるように会社について説明し、採用する社員はもちろん家族の人となりまで理解しようと努めました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">「がんばらない経営」は、加藤馨氏から加藤修一氏へと経営のバトンとともに引き継がれた経営思想です。しかし、「がんばらない経営」は決してトップの活躍が目立つ経営ではありません。組織として「社員一人ひとりが活躍する」ようにする経営であり、逆を言えば個人のスタンドプレーに頼らない組織運営と言えるでしょう。力のある人が力のない人をおとしめるのではなく、互いに誠意をもって協力し、お客様に対しても何も恥じるところのない「誠実さ」で対応する――そんな組織を理想とし、常に目指しているのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そして、その誠意は、まず「礼儀」から始まると加藤馨氏は強調します。会社内、お客様、取引先――あらゆる人間関係において「誠意」が必要です。そして、相手に対し礼儀正しくなければ、そもそもそこに「誠意」は存在しません。礼儀や誠意というものは、部下が上司に対して一方的に恭順の意を示すことではありませんし、取引先に対し優位性を誇るためのものでもありません。礼儀が誠意につながるスタートである――このことをしっかり理解、徹底することが「がんばらない経営」のスタートなのです。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5071-scaled-e1613979333755.jpg?resize=414%2C552&#038;ssl=1" alt="松下幸之助の色紙「心」" class="wp-image-253" width="414" height="552" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5071-scaled-e1613979333755.jpg?w=600&amp;ssl=1 600w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5071-scaled-e1613979333755.jpg?resize=225%2C300&amp;ssl=1 225w" sizes="auto, (max-width: 414px) 100vw, 414px" /><figcaption>今も事務所に掲げられている松下幸之助の色紙</figcaption></figure>
</div>

<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5069-1-scaled-e1613979321438.jpg?resize=434%2C578&#038;ssl=1" alt="松下電器からの感謝状" class="wp-image-258" width="434" height="578" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5069-1-scaled-e1613979321438.jpg?w=600&amp;ssl=1 600w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5069-1-scaled-e1613979321438.jpg?resize=225%2C300&amp;ssl=1 225w" sizes="auto, (max-width: 434px) 100vw, 434px" /><figcaption>昭和43（1968）年3月12日に松下電器産業から授与された感謝状。15ヶ年優秀販売店として表彰された</figcaption></figure>
</div>

<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5070-scaled-e1613979312177.jpg?resize=430%2C574&#038;ssl=1" alt="昭和30年代のマッチのレッテル（ラベル）" class="wp-image-260" width="430" height="574" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5070-scaled-e1613979312177.jpg?w=600&amp;ssl=1 600w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/img_5070-scaled-e1613979312177.jpg?resize=225%2C300&amp;ssl=1 225w" sizes="auto, (max-width: 430px) 100vw, 430px" /><figcaption>昭和30年代の加藤電機商會のマッチのレッテル（ラベル）。当時は、ラジオの月賦販売が柱だった</figcaption></figure>
</div>


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		<title>昭和33年の加藤電機商会に見る「がんばらない経営」の原点</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 24 Nov 2020 07:26:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[いはらき]]></category>
		<category><![CDATA[ポイントカード]]></category>
		<category><![CDATA[加藤電機商会]]></category>
		<category><![CDATA[茨城新聞]]></category>
		<category><![CDATA[誠実第一主義]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 「がんばらない経営」の土台を築いた加藤馨氏ですが、加藤馨氏に関する新聞や雑誌の記事はあまり残っていません。昭和22（1947）年3月に茨城県水戸市 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/120" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">昭和33年の加藤電機商会に見る「がんばらない経営」の原点</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph"><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">「がんばらない経営」の土台を築いた加藤馨氏ですが、加藤馨氏に関する新聞や雑誌の記事はあまり残っていません。昭和22（1947）年3月に茨城県水戸市元台町の借家にラジオ受信機を主体とする販売・修理業を開店。昭和48（1973）年に息子の加藤修一氏（当時専務）に社長を譲りました。その後、平成7（1995）年に名誉会長に退きます。加藤馨社長の時代は、メーカー系列店が生れ、その後混売店が登場し、量販店へとまさに移行し始めた時期です。まだまだ全国に多くの家電店があり、加藤電機商会が（初期のカトーデンキを含め）メディアに取り上げる機会が限られていたのもしかたありません。</p>



<p class="wp-block-paragraph">柳町の事務所で資料を整理していて、初期の加藤電機商会を取材した新聞記事が1本だけ見つかりました。昭和33（1958）年4月16日の新聞「いはらき」（現：茨城新聞）の「土地ッ子」という連載記事です。商売を始めて約10年。店舗は昭和26（1971）年に根積町（現在の柳町）に移転していますが、まだ売場6坪に住居12坪という平屋の建物。現在残っている3階建ての建物への建て替えは、昭和39（1964）年です。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>間口三間、奥行五間の小じんまりとした店。だがラジオ、テレビをはじめ一般家庭電機器具や各種部品などが所せましと並べられ、活気があふれ一見して繁昌している店であることが分る。しかし店のあるじ加藤馨さんはズブの素人からスタートしたもので彼の歩んだいばらの半生—軍刀下げた将校さんからラジオ屋さんへの転換は日本のある時代の商法を象徴しているのかも知れない。</p><cite>――新聞「いはらき」1958年4月16日「土地ッ子」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">当時の有限会社加藤電機商会は、加藤馨氏が代表取締役で、奥様の芳江氏が専務。その他従業員は４人で、１人は住み込みだったといいます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>「私は変りものです。」と語り出した。（中略）子供のころから機械いじりが好きで、パイロットを志願、航空通信を学んだ。そして満州、朝鮮、支那、ニューギニヤをまわり、さる十七年豊岡陸軍航空士官学校から吉田通信学校教官となったのが水戸とのえんのはじめ。二十年春学校の近くに住み、鉄道員の娘である芳江さんと恋愛結婚した。この若い中尉さん新婚の夢さめやらぬうちに終戦、露頭に迷った。結局陸軍時代に習得した電気通信の技術を生かして「電気屋」になることを決心、二十二年三月市内元台町に店を出した。店には中古ラジオが五台ぐらい。<br>加藤さんは自転車で各家庭を回り、ラジオの修理をやるとともに月二回ぐらいはリュックを背負って部品の買出しに東京まで出かけた。奥さんはミシンとあみもの、新聞配達までやって家計を助けた。二十六年六月やっと現在の場所に店を持つまでになったのである。</p><cite>――新聞「いはらき」1958年4月16日「土地ッ子」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">戦争が終わって職を失い、職業安定所に通うも「元将校には職業を紹介しないよう占領軍から指令がきている」と知らされ、生活のため自分で商売を始めます。加藤馨氏は回顧録で「芳江の家の道端にラジオ修理の手書きの看板を出したところ、週に2～3台位注文があり、これを直して何とか最低生活をして暮しました」と振り返っています。その後、念願の店舗を元台町に借り、昭和25（1950）年に根積町の土地を購入、翌26年に新店舗を建てて移転します。</p>



<p class="wp-block-paragraph">単独店、いわゆるパパママショップという商売スタイルですが、当時から加藤馨氏の考え方は徹底的に理詰めで、合理的でした。まだまだどんぶり勘定の店が多かった時代、その考え方は非常に先進的と言えます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>加藤さんのモットーは誠実第一主義。電機器具の値段はアフター・サービスの可能な範囲ぎりぎりにまで下げて売る。かけ値などは絶対にしない。そして消費者には器具の長所短所をはっきり言ってやる。売ろうとするのではなく家庭電化計画を側面から応援してやるという形をとる。例えば消費者が東京から比較的安い値段でテレビを買ってきたとする。しかしひとたび故障すれば修理代がかかる。結局長いうちには損となる勘定になるのではあるまいか――など近代商業学の理論を地で行っているのである。</p><cite>――新聞「いはらき」1958年4月16日「土地ッ子」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この考え方は今でも通用するものです。「誠実第一主義」という言葉自体はありふれたものですが、加藤馨氏はお客様の目先の損得ではなく、お客様が商品を使用する上での価値、そして使い続ける中でのコストなどをしっかり考え、最終的にお客様がお得になることを最優先に考えます。目先の「誠実さ」ではなく、真の「誠実」です。これは言葉以上に難しいことです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">当時の家電は今よりも高額です。しかも、ローンはまだ普及していませんでした。たとえばテレビ（もちろん白黒）は昭和33年頃に価格がこなれてきましたが、それでも14型で6万円台。当時の月給は厚労省「<a href="https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/detail/">賃金構造基本統計調査</a>」によると1万6608円ですから、だいたい月給4ヶ月分です。「結局長いうちには損となる勘定」と言われても、お客様が目先の価格に踊らされるのもしかたがありません。そこを真の「誠実」で貫いたのが加藤馨氏の商売です。しかも、「かけ値などは絶対にしない」。値切られることを想定して表示売価をあらかじめ高く設定しておく「かけ値」は誠実ではありません。加藤電機商会で表示している価格には明らかな根拠があり、お客様にとって絶対お得だという“自信”があるのです。さらに、「消費者には器具の長所短所をはっきり言ってやる」「売ろうとするのではなく家庭電化計画を側面から応援」という姿勢で、「誠実」という信念を貫きます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>電気に関する技術は日に日に高度化する。加藤さん一家は朝七時起床、子供たちもそれぞれ自室を掃除する。奥さんは炊事、洗濯など、みんな電気を使用する。八時子供たちが学校へ出かけると約三十分間店員さんを集めて新しい知識の教育。それから開店、夜は八時までとはっきりしている。加藤さん自身の勉強は夜一時間くらいである。それで寝るのはいつも十二時近くになってしまってオーバー・ワークだとなげく。「商店は小さな店ほど遅くまで営業する傾向がある。商店員は実働九時間というのが理想的だが、夜になって家庭から電話などで用を頼まれるとやはり断れない。こうした人情主義は考えもので、家庭と商店の協力態勢によりもっと経済的で合理的な商店経営と取り組む必要があるのではないでしょうか。競争が激化したとはいうもののこうした“悪循環”は改善しなければならない」と続けた。風雲十年、すっかり商人となり、土地ッ子となった加藤さんなのである。</p><cite>――新聞「いはらき」1958年4月16日「土地ッ子」より</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">地域電気店の場合、店舗周辺の住民が主なお客様です。商売といえども近所付き合いの延長という面もあり、どうしても「人情主義」になりがちです。もちろん人情主義を「是」とするお店が間違っているわけではありません。しかし、無理をすれば、今提供しているサービス、商売そのものも長続きさせることが困難になります。お客様とお店の「協力態勢」により、「経済的で合理的な商店経営」に取り組む――もともと商売人ではなかった加藤馨氏が、戦後の混乱期に商売を始めてわずか10年で至った発想なのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">昭和33年に掲載されたこの新聞記事一つからも、加藤馨氏が単なる店主ではなく、「経営」視点を持っていたことがわかります。単なる繁盛店の談話ではありません。今置かれている状況を冷静に、広く長い目で見つめ、そこから本質を見極める――これは「がんばらない経営」の原点と言えます。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" width="498" height="715" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2020/11/iharaki_tochikko-1.jpg?resize=498%2C715&#038;ssl=1" alt="新聞記事の画像" class="wp-image-126" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2020/11/iharaki_tochikko-1.jpg?w=498&amp;ssl=1 498w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2020/11/iharaki_tochikko-1.jpg?resize=209%2C300&amp;ssl=1 209w" sizes="auto, (max-width: 498px) 100vw, 498px" /><figcaption>掲載から60年が経過した（無記名）記事ですので著作権は切れていますが、複製防止のためサイズを多少縮小し読みづらくしております。あくまで参考イメージです。　※掲載に問題等ございましたらお手数をおかけしますがご連絡ください。</figcaption></figure>



<h3 class="wp-block-heading" id="受け継がれた-誠実さ">受け継がれた「誠実さ」</h3>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏から社長を継いだ加藤修一氏も、ケーズデンキがFC加盟企業の強い要請もあってポイントカード導入に向けて動いていた際、最後の最後の段階で「これはお客様のためにならない」と採用を中止させたことがあります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>「競合店がポイントカードを出します。やらなきゃ負けてしまいます」というのです。しかし、会議で担当者たちの議論を聞いていると首をひねらざるを得ません。「ポイントカードを出せば、粗利が下がる。その分を補うためには、どうしたらいいのか」。ポイン卜発行にかかわるコストを価格に転嫁しては本末転倒です。<br>お客様を縛らずに自由に選んでもらえるようにサービスをよくすることが本来の商売のはず。利益を削ってまで、レジの手間が増えるポイントカードを出す必要が本当にあるのか。カードの端末やソフトの廃棄などで数千万円の損を出しました。しかし、このときの決断は間違っていなかったと思っています。</p><cite>――日経MJ「HISTORY 暮らしを変えた立役者　ケーズホールディングス相談役 加藤修一」</cite></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">世の中で「正しい」と言われているものにも、その後一過性のブームで終わるものが少なくありません。また、ここまでコストをかけたから「とりあえずやってみる」と考える人も多いでしょう。しかし、お客様にとっての「本当の価値」を見極める「誠実さ」があったからこそ、数千万円の損をいとわず決断したのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">加藤馨氏の「消費者が東京から比較的安い値段でテレビを買ってきたとする。しかしひとたび故障すれば修理代がかかる。結局長いうちには損となる勘定になるのではあるまいか」と、加藤修一氏の「お客様を縛らずに自由に選んでもらえるようにサービスをよくすることが本来の商売のはず。利益を削ってまで、レジの手間が増えるポイントカードを出す必要が本当にあるのか」、この２つの発言は、まさに「がんばらない経営」の精神が正しく承継され、行動に示されたことを表しています。</p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/120">昭和33年の加藤電機商会に見る「がんばらない経営」の原点</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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