※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。
当研究所において、古い資料の整理も重要な仕事です。戦時中~創業期の写真だけでもかなりの量があります。背景や人物などを比較しながら分類します。加藤修一氏が子供だった頃の写真は風景、あるいは創業当時の社員の顔などを加藤修一氏に確認してもらいながら撮影時期や撮影場所を特定しています。
加藤馨氏の回顧録に以下のような一節があります。
1日も早く店を借りて電器店を始めたいと考えて水戸から石岡迄の間の貸し店舗を自転車で探しましたがなかなか見つからずで1年たってしまいました。こんな時にふと気付いたことがあり、これは芳江の家から500メートルくらい先の水戸市元台町五丁目の薬王院というお寺の入口の近くでした。この家は屋根と柱しかなく2戸建てで平屋でした。(中略)家を直してこの家をお返しする時には直したままで無償で差し上げて、月に家賃を70円払いましょうと申し出ました。こんな話し合いをして私はこの家に1日おきのように伺い、28回も行く内に先方も芳江の家が近くにあることや私が通信学校の将校だったことを知って信用して、借りることができました。
この屋根と柱しかないボロ家が私にとっては戦後の人生を開く第一歩になりました。この家は昭和26年6月20日に今の根積町に家を建てて移転するまで、生活と事業の拠点として4年4ヶ月生活し、この間に修一も幸男も生まれました。最貧の暮しの中に、我が人生にとっても役に立った借家だったのです。月に70円で借りてましたが経費を通算するとお返しするまでに月当り1,010円になりましたが、有難いボロ家だったのです。このボロ家を芳江の父に直してもらって、材料の板やクギ代で約3万円かかり昭和22年の2月末にできあがり3月1日に引越しました。修一はまだ11ヶ月でした。開店といっても90㎝×180㎝のトタン板に加藤電機商会ラジオ修理店と書いてあるだけでしたが、当時はラジオの修理をする店が少く部品も不足で修理出来ないラジオが沢山あったらしく、近所からも下市の方からも修理品を持参する人も多く月平均約70台位有りましたので、部品代の他に修理工賃を100円ずつ頂きましたので当座の生活は何とか暮せるようになりました。
加藤馨氏手稿「回顧録」より ※旧仮名遣いを含め、読みやすく一部表記を修正しています
写真を整理していて、このボロ家と呼ばれていた元台町の家を直し、生活を始めた当時の写真が見つかりました。
妻 芳江氏の実家で、道端に看板を出しただけのラジオ修理業を始め、その後ようやく手に入れた念願の店舗です。回顧録の記述を見ると引っ越して1ヶ月くらいでしょうか。馨氏も書いているようにボロ家に板の壁を打ち付けて直した家ですが、それでも新しい生活を始める高揚感や決意が感じられます。
以前も記しましたが、陸軍将校として戦後を迎えた加藤馨氏は職業安定所から仕事を紹介してもらうこともできず、自らラジオ修理店を始めることでなんとか暮らしていきます。終戦直前に芳江氏と結婚し、また子供生まれて家族となんとか生活していかなければならない――これが加藤電機商会、後のケーズデンキの商売の始まりです。文字で読むだけではなかなかイメージできませんが、このように当時の写真を見ると、ケーズデンキの歴史、さらには家電業界の歴史や戦後復興の足取りなどさまざまなものが伝わってきます。
戦後のラジオ修理需要
テレビが登場するまで、ラジオは唯一のリアルタイムのメディアでした。しかし、戦前普及していたラジオも繊細で多くが失われます。戦後日本を統治したGHQは、さまざまな政策などを伝えるメディアとしてラジオの普及を命じます。とはいえ、戦後のメーカーに大量生産するだけの力はありません。そのため、古いラジオの修理するか、あるいは部品から組み上げるしかありませんでした。シャープ(終戦。戦後復興へ、まずは修理奉仕から)のような電機メーカーだけでなく、石油販売の出光興産(ITメディア「決して人を切らなかった出光興産の創業者」)なども戦後ラジオ修理にかかわっています。パイオニアのHPに掲載されている創業者 松本望の「回顧と前進」には以下のような一節があります。
昭和21年度の生産計画の中にも、百万台近くは三菱、東芝、日立、富士通、日本電気、沖、岩通、住友通信、川西(現富士通テン)などの大手メーカーによる生産分が含まれていました。
パイオニア 松本 望著「回顧と前進」第9話「終戦直後の業界」その1「終戦直後のラジオ生産 ~ 悪戦苦闘の新生ラジオ産業 ~」より
それはともかくとして、ほかに求める娯楽施設もなかったし、情報を手っ取りばやく得られるということで、誰もがラジオを欲しがっていたのです。
どんな粗悪品でも、つくりさえすればひったくるように右から左へ捌(さば)けました。
そんな状況ですから、軍隊時代に通信機や無線関係の兵役に従事していた人達までが、即席のメーカーに変身して町のラジオ屋さんに部品を買い集めにくる人が多く、また、一部のアマチュアの方達によるラジオの“組み立て屋さん”が繁盛しはじめたのも、ちょうどこの頃のことです。
真空管が不足し、球なしセットが倉庫に山積みにされる一方、やっと真空管を入手して出荷しても、今度はコンデンサーがパンクして、手直しが必要になるなど、メーカーも大変だったようです。そのような中で、個人店も修理の腕が問われたのでしょう。先の写真にある加藤馨氏の姿は、ラジオを修理する職人といった雰囲気です。つくればどんどん売れていく、平気で粗悪品を売る人もいる中、加藤馨氏はしっかりお客様の信頼を得ていきます。
当時は売る商品もまだ電球程度で、ほとんどなかったので、修理が主な収入源です。戦後復興が進み、徐々に商品が出回るようになって、ようやく家電“販売”店になっていきます。柳町(当時の根積町)の土地を全預貯金をはたいて購入したのは昭和25年9月19日。さらに住宅金融公庫から融資を受け、昭和26年6月15日に18坪(住居12坪 店舗6坪)の店舗兼住居が落成。6月20日に元台町のボロ家から引越します。根積町店舗での営業開始は6月26日のことです。その後、根積町店舗は鉄筋コンクリート3階建てに建て替えられ、これが現在研究所のある柳町事務所です。
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