オーディオに強かった加藤電機商会

昭和37年前後に講演する加藤馨氏

以前もお伝えしたように、退任した今も引き続き加藤馨氏の経営哲学の研究のため、柳町事務所に時々足を運んでいます。古い写真を整理していると、撮影時期が不明なものも少なくありません。そこで、写っている周囲の風景、あるいは服装などから、時期や撮影場所を探ることになります。社員旅行やメーカーの招待会など、日時や場所が明確なものをまずは年表にすることで、単に時期や場所を特定するだけでなく、撮影された時期の会社の状況や市場環境などを理解できるケースもあります。

そのような古い写真から今回紹介するのが、下の写真です(アイキャッチ画像と同じですが、タブレットやスマホではアイキャッチ画像が表示されないため、再度掲載しています)。

昭和37年前後に講演する加藤馨氏
昭和37年前後に撮影された講演する加藤馨氏。44歳前後と思われる

この写真は、見てのとおり「第6回ナショナルラジオ販売推進懇談会」で講演している加藤馨氏です。「いはらきホール」という名称から、会場は現在の茨城新聞社の関連施設でしょうか(調べてもホールを特定できませんでした。ご存知の方はぜひ教えてください)。イベント名でも調べましたが、なにせ古い時代で特定できません。そこで加藤馨氏の背後にある黒板の文字から時期を特定します。ナショナル「HE-38」は1962(昭和37)年のナショナルのカタログに掲載されていることが分かりました。その下のビクター「STL-34」は、1961(昭和36)年のカタログに掲載されています。イベントの主催がナショナルラジオなので、昭和36年頃の写真と考えて良いでしょう。

講演台の上を見ると、話者が喉をうるおす水が置かれており、ある程度長い時間加藤馨氏が語っていたと考えられます。よく見ると加藤馨氏の上着の左胸にナショナルのマークらしきものも見えます。つまり、状況としては、ナショナル販売店向けに、加藤馨氏が販売好調店の店主として、ナショナル「HE-38」の売り方を、競合機種であるビクター「STL-34」やコロンビア「531」と比較しながら、説明しているということになります。

ちなみに価格はナショナル「HE-38」が5点一式で現金正価3万9500円(加藤馨氏の背後左側のステレオ)。一方、ビクター「STL-34」2点一式で現金正価3万9800円(同じく右側のステレオ)。価格帯も近い両機種は、見た感じもよく似ています。

背景に写っているオーディオは「ステレオ電蓄(電気蓄音機)」と呼ばれた機器です。1960(昭和35)年にNHKや民放4社がカラーの本放送を開始し、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「三種の神器」と呼ばれるようになります。カラーテレビの登場を受け、買いやすい価格になった 白黒テレビが急速に普及し、1962年度末にはテレビ受信契約件数は約1400万件、世帯普及率は65%に達します(国勢調査対象世帯ベース)。そのような中、次の人気商品として期待されたのが「ステレオ電蓄」です。写っている家具調ステレオは、富裕層を中心に人気を集めました。メーカーとしてもステレオの販売に注力しており、写真のような販売研修会が行われたのでしょう。ちなみに、ステレオ対応の電蓄を1957年に日本で初めて販売したのがビクターです。松下電器は、オーディオメーカーであるビクターを追いかける立場だったのでしょう。

1962年当時の加藤電機商会

当時の有限会社加藤電機商会について、新聞などの記事はほとんどありませんが、有力店だったことは分かります。「ナショナル有力連盟店奥様ご招待会」「関東地区有力連盟店本社ご招待」など様々な研修会や招待旅行の写真が残されています。1963年には「ナショナル10年連続優秀連盟店様謝恩会」に招かれ、松下幸之助会長の話を聞き、本社と京都御所を見学しています。メーカー各社が電器店の系列店化を進めたのもこの時期で、加藤電機商会は1964(昭和39)年にナショナル系列店になります。

また、講演当時の1962年(昭和37)年は根積町(現 柳町)の店舗はまだ平屋(コンクリート3階建てに建て替えたのは1964年1月)。長男の加藤修一氏は15~16歳。店舗全体は写っていませんが、1~2年前の中学生時代の加藤修一氏の写真に、当時の店舗の看板が写っていて雰囲気がわかります。

中学生の頃の加藤修一氏。まだ平屋だった根積町の店舗前でカブにまたがっている

店頭の看板にもナショナルの「テレビ」「ラジオ」の文字が見えます。加藤電機商会は1964年に店舗をコンクリート3階建てに建て替え、さらにはナショナル専売店になります。しかし、1967年1月には「東日電チェーン」に加盟し、混売店へと舵を切ります。当然、松下電器からは抵抗されましたが、県内でもトップクラスの販売力があったため、混売店となってからも、ナショナルとの取引や研修会への参加は継続されました。

その後、カトーデンキ、カトーデンキ販売と社名がかわり、1988年にはついに株式を店頭公開します。その店頭公開パーティーの席上、当時の加藤修一社長は次のような挨拶をしています。

 (昭和)63年6月10日現在の資本金は、9億7854万円であり、発行済み株式数は499万株であります。役員は取締役が6名、監査役が2名、従業員数は266名であります。本社は水戸市柳町1丁目にあり、店舗は茨城県に24店、栃木県に3店、合わせて27店、その他に水戸市、日立市、土浦市、鹿島地区にそれぞれサービスセンターがあります。

 事業内容を品種別売上高でみますと、昭和62年9月期ではオーディオ・カラーテレビ・VTRなどのAVC商品が54.2%、冷蔵庫・電子レンジ・洗濯機・クリーナーなどの白物家電が13.7%、エアコンなどの季節商品が11.1%、その他21%となっております。

当社の特徴として(中略)、第四は、AVCつまり、オーディオ・ビジュアル・コンピューターに強い販売力を発揮していることであります。

1988年 加藤修一社長による会社説明講演のメモより

この会社説明の講演でもカトーデンキ販売の強みとして、「AVCに強い販売力を発揮している」ことが挙げられており、実際、1987(昭和62)年6月に初めて県外に出店したのも「宇都宮AVセンター」でした。戦後ラジオ修理店として開業した加藤電機商会の成長を支えたのが、AV商品の急速な普及だったのです。ケーズデンキに限らず、家電量販店の歴史において、テレビやオーディオ、そしてコンピュータは急成長を支える重要な商品となりました。

1962(昭和37)年頃に写された加藤馨氏が講演する姿は、当時数多くの電器店があった中で、厳しい競争を生き残り、量販店として飛躍的な成長を遂げていった会社の原風景と見ることができるかもしれません。

研究所長 川添 聡志

株式会社流通ビジネス研究所 所長 雑誌および書籍の編集者として出版業界に携わる。家電量販店向け業界誌『月刊IT&家電ビジネス』編集長を務めた後、家電量販企業に転職。営業企画やWebを含めた販促などを担当し、その後流通コンサルタントとして独立。ケーズデンキ創業者・加藤馨氏および経営を引き継いだ加藤修一氏の「創業精神」を後世に伝えるため、株式会社加藤馨経営研究所の設立に携わり研究所所長に就任。その後、ケーズデンキに限定せず、幅広く流通市場を調査研究するため、2022年1月からコンサルティング会社「株式会社流通ビジネス研究所」を設立し、同年4月より活動拠点を新会社に移行

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