元台町で開業した直後の馨氏

元台町の店舗について記された手紙

※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。

研究所では、加藤馨氏が残されたたくさんの古い資料を整理しています。中でも多いのが書簡です。加藤馨氏は、親族、故郷の知人や恩師、かつての同業者、あるいは戦友たちと手紙のやり取りをしていました。そのやり取り一つひとつに加藤馨氏の人柄を感じさせるエピソードがあります。その中から、元台町に最初にラジオ修理店を開業した1947(昭和22)年~1950(昭和25)年頃のエピソードを紹介しましょう。

手紙は、茨城県警で交通係長、刑事課長、刑事官、警察署長などを務められ、その後作家になられた菊池興安さんから加藤馨氏あてに書かれたものです。

その前に、加藤馨氏が戦後商売を始めた元台町の店舗について回想した文章を紹介しましょう。

 顧みますと、60年前の昭和22年3月6日に水戸市の場末で戦災で焼け残った家を借りて小さな電機店が開店しました。それは大変なボロ家で屋根と柱しか残ってない家でした。それを改修して3坪の店舗と9坪の住居を作りました。この家は当時戦後の住宅難の時代でも借り手のないボロ家でしたが、このボロ家が幸いして私が借用することができました。
 当時私は元職業軍人で終戦で失業者になって暮らしに困っていたので、何とか生活できればよいと考えて借りました。ところがこのボロ家が宝の山になろうとは予想もできませんでした。この店を開店して私たち親子3人の生活ができるようになり心から喜びました。私は今でもこのボロ家を私に貸してくださった家主に感謝しております

ケーズホールディングス60周年創業祭 加藤馨名誉会長の講演草稿より
1947年に米軍が撮影した水戸の航空写真
米軍撮影の1947年12月12日の水戸市元吉田付近の空中写真(提供:国土地理院)。
下の大きな四角い区画は水戸南飛行場(陸軍航空通信学校跡)

まだ戦争の爪痕が色濃く残る中、家族と生活していくためになんとか借りたボロ家、これがケーズデンキの始まりです。この時代の加藤馨氏の暮らしぶりを伝える資料(文章や写真)はあまり残っていません。菊池興安氏の手紙には、その当時の様子が書かれていました。

 当時の貴店は、入口が高い敷居で、中が土間だったと思います。ラジオ等が並んでいました。
 会長さんが、中で仕事をしており、奥様が店の清掃をしており、二人の息子さんが敷居をまたいでのりこえ、出たり、入ったりして遊んでいました。
 そのころ電気関係の店はなかったので、親に頼まれて色々と買物をしました。そのとき私の住所を聞かれたので、吉田だと言うと、「私も吉田の通信学校にいたことがある」と言われたように記憶しております。
(中略)
 あるとき、私が歯の治療のために江橋歯科の待合室にいると、そこへ会長さんが来られて、歯科の先生に「私はいつまでもこの台町にいるつもりはない。別の場所へ出て、必ず店を大きくして見せますよ」と言っておられました。
 すると歯科の先生も、「うん、実は私も同じ考えだよ。別の土地を求めて開業するつもりだ」とのことで、このときの二人の会話は忘れられませんでした。

1992年1月に菊池興安氏が加藤馨氏に送った手紙より

手紙によると、加藤馨氏も歯科の先生も夢を実現しており、特に会長(加藤馨氏)は51店舗を展開する発展ぶりで、菊池氏は「敬意を表すものであります」と感想を記しています。

加藤馨氏の回想録にも、借家ではなく、早く自分の店を持ちたいと書かれていました。しかし、「別の場所に出て必ず店を大きくして見せますよ」という強い決意は、この手紙で初めて知りえた加藤馨氏の回想録にも、この手紙で初めて知ることができた事実です。水戸から石岡まで物件を探し回り、苦労してやっと見つけた借家ですが、加藤馨氏の視点は先を見据えていました。

元台町店舗時代の加藤家。左の写真の女性は加藤馨氏の妻・芳江氏で、背後に当時の店の様子が写っている

預貯金を全部はたいて、根積町(現在の柳町)の土地を手に入れたのは1950(昭和25)年のこと。それから新しくできた住宅金融公庫法により建築資金を借り入れ、1951(昭和26)年6月に店舗兼住居が完成。6月26日に根積町店を開店します。これが「事業拡大の第一歩」となったのです。

ちなみに、加藤馨氏はその後カトーデンキを多店舗展開させますが、この拡大路線について1982(昭和57)年に加藤修一氏に社長の座を譲った際の講演で次のように語っています。

昭和43年に沼生東日電チェーン会長のすすめで東日電チェーンに入会したわけですが、それまでは多店舗化をはかるとか経営の拡大をはかるといったことは毛頭考えていませんでした。むしろ楽しく、家族円満に過ごせればいいと思っていました。ところが沼生さんから「そんなことではやがて大型店に喰われてしまう」と強くいわれましたので、それがきっかけで気持ちを切り替え、拡大への経営路線を歩むことにしました。
このため先進大型店を見学させてもらい、勉強しました。

ラジオ電化新聞 昭和57年10月4日号 記事より

家族を大切にした加藤馨氏。根積町に建てた自分の店舗で成功し、十分満足していたようです。しかし、時代は、今の事業のまま留まることを許さない高度成長期を迎えます。世の中が豊かになるにつれ、事業も厳しい競争環境にさらされていきます。先に事業拡大に舵をとった同業ヌマニウ(栃木県を中心に50店舗を展開した電気店)の沼生社長のアドバイスを聞き入れ、多店舗化に踏み切る決断がなければ、柳町の1店舗だけで終わっていたかもしれません。

正しいと思ったアドバイスは素直に聞き入れる。だからといって他人の意見に従うだけでなく、自身でしっかり判断して「正しい」と思ったことをしっかり貫く。自分一人の力量だけでなく、幅広い情報や意見を取り入れ、視野を広げた上で経営判断をしてきたことが、後のケーズデンキの発展につながったのでしょう。このような姿勢は、若くして社長を引き継いだ加藤修一氏にもしっかり受け継がれています。

研究所長 川添 聡志

株式会社流通ビジネス研究所 所長 雑誌および書籍の編集者として出版業界に携わる。家電量販店向け業界誌『月刊IT&家電ビジネス』編集長を務めた後、家電量販企業に転職。営業企画やWebを含めた販促などを担当し、その後流通コンサルタントとして独立。ケーズデンキ創業者・加藤馨氏および経営を引き継いだ加藤修一氏の「創業精神」を後世に伝えるため、株式会社加藤馨経営研究所の設立に携わり研究所所長に就任。その後、ケーズデンキに限定せず、幅広く流通市場を調査研究するため、2022年1月からコンサルティング会社「株式会社流通ビジネス研究所」を設立し、同年4月より活動拠点を新会社に移行

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