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	<title>会社の歴史 - （株）流通ビジネス研究所</title>
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	<description>　　家電流通のプロフェッショナル</description>
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	<title>会社の歴史 - （株）流通ビジネス研究所</title>
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		<title>加藤馨氏の評伝「正しく生きる」発売</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 29 Mar 2023 08:18:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ニュース]]></category>
		<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[家電流通史]]></category>
		<category><![CDATA[加藤馨]]></category>
		<category><![CDATA[正しく生きる]]></category>
		<category><![CDATA[立石泰則]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>ジャーナリストの立石泰則氏が執筆された、ケーズデンキ創業者・加藤馨氏の評伝が岩波書店から発売されました。 立石 泰則・著『正しく生きる　ケーズデンキ創業者・加藤馨の生涯』（岩波書店）終戦直後の焼け野原のなかで妻と二人で始 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/2263" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">加藤馨氏の評伝「正しく生きる」発売</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>ジャーナリストの立石泰則氏が執筆された、ケーズデンキ創業者・加藤馨氏の評伝が岩波書店から発売されました。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p><a href="https://www.iwanami.co.jp/book/b621820.html" target="_blank" rel="noopener" title=""><strong>立石 泰則・著『正しく生きる　ケーズデンキ創業者・加藤馨の生涯』（岩波書店）</strong></a><br>終戦直後の焼け野原のなかで妻と二人で始めたラジオ修理店を、全国有数の家電量販店へと育て上げた加藤馨。「会社はそこで働く全員のもの」とする、彼のユニークな会社観、経営哲学はどのようにして生まれたのか。生い立ちから戦争体験、起業、引退後の暮らしまでを、丹念な取材によって明らかにし、その人生を戦後家電流通史とともに描き切った壮大なノンフィクション作品。</p>
<cite>岩波書店Webサイトより</cite></blockquote>



<p>パナソニックやソニーといったメーカー、ヤマダ電機やケーズデンキといった流通、製販両面から家電業界全体を長く取材してきた立石氏だからこそ書けた評伝です。生い立ち、戦争体験、そして戦後にラジオ修理店を始め、後のケーズデンキの土台となる経営思想を築いたその背景に詳しく迫っています。立石氏は、柳町事務所に眠る多くの資料を丹念に調べ、ひとつひとつの出来事の背景を解き明かしながら、加藤馨氏がどうして「人を大切にする経営」「がんばらない経営」「会社はそこで働く全員のもの」という経営思想に至ったのか、そして創業当初からどのように経営思想を実践してきたのか、明らかにしています。</p>



<p>加藤馨経営研究所を立ち上げたメンバーとして私も微力ではありますが、加藤馨氏が残した資料の整理、あるいは古い記事や外部資料などを探すなど手伝わせていただきました。とはいえ立石氏の執筆も困難を極め、最終的に実に456ページの長編となり、とても読み応えのある書籍となっています。世の中によくある「経営者の成功談」ではありません。日本が経験した戦争、家電流通史を学べるとともに、正しく優しさにあふれた魅力的な人物の生涯を追体験できます。ふだん読書をされない方は、書籍の厚さに尻込みするかもしれませんが、内容はとても読みやすいので、経営者や家電業界関係者に限らず、幅広い方に読んでいただきたいと思います。</p>



<p>昨今、米国経済界でも「会社は株主のもの」から「会社は従業員のもの」に考え方がシフトし、社員満足度の重要性などが注目されています。しかし、そのような世の中の潮流とは関係なく、加藤馨氏は「人を大切にする経営」を創業当初から実践してきました。「きれいごとでは経営はできない」という声もよく聞きますが、加藤馨氏が創業した加藤電機商会は、「ズルをせずに正しく」「人を大切に」しながら厳しい競争環境を勝ち抜き、現在ではケーズホールディングスという、日本を代表する流通企業の一つになっています。加藤馨氏の「人を大切にする経営」に、ようやく時代が追いついたと言えるかもしれません。</p>



<p>本書を読み、加藤馨氏の生き方や思想を知り、共感する人が一人でも多く増えることを期待します。</p>



<p>Webで購入する場合はこちらから　<a href="https://amzn.asia/d/60ZyeN1" target="_blank" rel="noopener" title="">アマゾン</a>　<a href="https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784000614931" target="_blank" rel="noopener" title="">紀伊国屋書店</a>　</p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/2263">加藤馨氏の評伝「正しく生きる」発売</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>オーディオに強かった加藤電機商会</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 May 2022 08:46:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[ステレオ電蓄]]></category>
		<category><![CDATA[加藤電機商会]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>以前もお伝えしたように、退任した今も引き続き加藤馨氏の経営哲学の研究のため、柳町事務所に時々足を運んでいます。古い写真を整理していると、撮影時期が不明なものも少なくありません。そこで、写っている周囲の風景、あるいは服装な &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1857" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">オーディオに強かった加藤電機商会</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>以前もお伝えしたように、退任した今も引き続き加藤馨氏の経営哲学の研究のため、柳町事務所に時々足を運んでいます。古い写真を整理していると、撮影時期が不明なものも少なくありません。そこで、写っている周囲の風景、あるいは服装などから、時期や撮影場所を探ることになります。社員旅行やメーカーの招待会など、日時や場所が明確なものをまずは年表にすることで、単に時期や場所を特定するだけでなく、撮影された時期の会社の状況や市場環境などを理解できるケースもあります。</p>



<p>そのような古い写真から今回紹介するのが、下の写真です（アイキャッチ画像と同じですが、タブレットやスマホではアイキャッチ画像が表示されないため、再度掲載しています）。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" fetchpriority="high" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/05/page054.jpg?resize=604%2C829&#038;ssl=1" alt="昭和37年前後に講演する加藤馨氏" class="wp-image-1858" width="604" height="829"/><figcaption>昭和37年前後に撮影された講演する加藤馨氏。44歳前後と思われる</figcaption></figure>
</div>


<p>この写真は、見てのとおり「第６回ナショナルラジオ販売推進懇談会」で講演している加藤馨氏です。「いはらきホール」という名称から、会場は現在の茨城新聞社の関連施設でしょうか（調べてもホールを特定できませんでした。ご存知の方はぜひ教えてください）。イベント名でも調べましたが、なにせ古い時代で特定できません。そこで加藤馨氏の背後にある黒板の文字から時期を特定します。ナショナル「HE-38」は1962（昭和37）年のナショナルのカタログに掲載されていることが分かりました。その下のビクター「STL-34」は、1961（昭和36）年のカタログに掲載されています。イベントの主催がナショナルラジオなので、昭和36年頃の写真と考えて良いでしょう。</p>



<p>講演台の上を見ると、話者が喉をうるおす水が置かれており、ある程度長い時間加藤馨氏が語っていたと考えられます。よく見ると加藤馨氏の上着の左胸にナショナルのマークらしきものも見えます。つまり、状況としては、ナショナル販売店向けに、加藤馨氏が販売好調店の店主として、ナショナル「HE-38」の売り方を、競合機種であるビクター「STL-34」やコロンビア「531」と比較しながら、説明しているということになります。</p>



<p>ちなみに価格はナショナル「HE-38」が5点一式で現金正価3万9500円（加藤馨氏の背後左側のステレオ）。一方、ビクター「STL-34」2点一式で現金正価3万9800円（同じく右側のステレオ）。価格帯も近い両機種は、見た感じもよく似ています。</p>



<p>背景に写っているオーディオは「ステレオ電蓄（電気蓄音機）」と呼ばれた機器です。1960（昭和35)年にＮＨＫや民放4社がカラーの本放送を開始し、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「三種の神器」と呼ばれるようになります。カラーテレビの登場を受け、買いやすい価格になった 白黒テレビが急速に普及し、1962年度末にはテレビ受信契約件数は約1400万件、世帯普及率は65％に達します（国勢調査対象世帯ベース）。そのような中、次の人気商品として期待されたのが「ステレオ電蓄」です。写っている家具調ステレオは、富裕層を中心に人気を集めました。メーカーとしてもステレオの販売に注力しており、写真のような販売研修会が行われたのでしょう。ちなみに、ステレオ対応の電蓄を1957年に日本で初めて販売したのがビクターです。松下電器は、オーディオメーカーであるビクターを追いかける立場だったのでしょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading">1962年当時の加藤電機商会</h2>



<p>当時の有限会社加藤電機商会について、新聞などの記事はほとんどありませんが、有力店だったことは分かります。「ナショナル有力連盟店奥様ご招待会」「関東地区有力連盟店本社ご招待」など様々な研修会や招待旅行の写真が残されています。1963年には「ナショナル10年連続優秀連盟店様謝恩会」に招かれ、松下幸之助会長の話を聞き、本社と京都御所を見学しています。メーカー各社が電器店の系列店化を進めたのもこの時期で、加藤電機商会は1964（昭和39）年にナショナル系列店になります。</p>



<p>また、講演当時の1962年（昭和37）年は根積町（現 柳町）の店舗はまだ平屋（コンクリート3階建てに建て替えたのは1964年1月）。長男の加藤修一氏は15～16歳。店舗全体は写っていませんが、１～2年前の中学生時代の加藤修一氏の写真に、当時の店舗の看板が写っていて雰囲気がわかります。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/05/13-04.jpg?resize=636%2C440&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1861" width="636" height="440"/><figcaption>中学生の頃の加藤修一氏。まだ平屋だった根積町の店舗前でカブにまたがっている</figcaption></figure>
</div>


<p>店頭の看板にもナショナルの「テレビ」「ラジオ」の文字が見えます。加藤電機商会は1964年に店舗をコンクリート3階建てに建て替え、さらにはナショナル専売店になります。しかし、1967年1月には「東日電チェーン」に加盟し、混売店へと舵を切ります。当然、松下電器からは抵抗されましたが、県内でもトップクラスの販売力があったため、混売店となってからも、ナショナルとの取引や研修会への参加は継続されました。</p>



<p>その後、カトーデンキ、カトーデンキ販売と社名がかわり、1988年にはついに株式を店頭公開します。その店頭公開パーティーの席上、当時の加藤修一社長は次のような挨拶をしています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　（昭和）63年6月10日現在の資本金は、9億7854万円であり、発行済み株式数は499万株であります。役員は取締役が6名、監査役が2名、従業員数は266名であります。本社は水戸市柳町1丁目にあり、店舗は茨城県に24店、栃木県に3店、合わせて27店、その他に水戸市、日立市、土浦市、鹿島地区にそれぞれサービスセンターがあります。</p><p>　事業内容を品種別売上高でみますと、昭和62年9月期ではオーディオ・カラーテレビ・VTRなどのAVC商品が54.2%、冷蔵庫・電子レンジ・洗濯機・クリーナーなどの白物家電が13.7%、エアコンなどの季節商品が11.1%、その他21%となっております。</p><p>当社の特徴として（中略）、第四は、AVCつまり、オーディオ・ビジュアル・コンピューターに強い販売力を発揮していることであります。</p><cite>1988年　加藤修一社長による会社説明講演のメモより</cite></blockquote>



<p>この会社説明の講演でもカトーデンキ販売の強みとして、「AVCに強い販売力を発揮している」ことが挙げられており、実際、1987（昭和62）年6月に初めて県外に出店したのも「宇都宮AVセンター」でした。戦後ラジオ修理店として開業した加藤電機商会の成長を支えたのが、AV商品の急速な普及だったのです。ケーズデンキに限らず、家電量販店の歴史において、テレビやオーディオ、そしてコンピュータは急成長を支える重要な商品となりました。</p>



<p>1962（昭和37）年頃に写された加藤馨氏が講演する姿は、当時数多くの電器店があった中で、厳しい競争を生き残り、量販店として飛躍的な成長を遂げていった会社の原風景と見ることができるかもしれません。</p>



<p></p>



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		<title>加藤馨会長の出店地探し</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 16 Feb 2022 04:00:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[経営戦略]]></category>
		<category><![CDATA[出店地探し]]></category>
		<category><![CDATA[石岡出店]]></category>
		<category><![CDATA[郊外立地]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏の残した資料や書籍を調べていると、研究を開始して1年以上経った今でも新たな発見があります。事務所に置かれている書籍はひと通り目を通したつも &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1383" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">加藤馨会長の出店地探し</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>加藤馨氏の残した資料や書籍を調べていると、研究を開始して1年以上経った今でも新たな発見があります。事務所に置かれている書籍はひと通り目を通したつもりですが、先日加藤馨氏に関する新たな記述を発見しました。</p>



<p>書籍名は『自分史　この石が食べれたら ──モンゴル抑留──』。著者の酒井武雄氏は、1922（大正11）年茨城県八郷町出身ですから加藤馨氏の5つほど年下です。昭和18年に満州・独立守備隊に入隊し、終戦時にモンゴルに抑留され、昭和22年に復員し農業に従事。その後15年ほど会社勤めした後、宅地建物取引業（自営）をされていた方です。</p>



<p>書籍が発行されたのは2002（平成14）年3月30日。発行出版社名がなく、印刷会社の名前しか記載されていないので自費出版書籍と思われます。著者の酒井氏は、ケーズデンキ水戸本店に加藤馨氏宛てに書籍を預け、加藤馨氏は同年4月に受け取りました。「H.14年5月21日 読切りとなる」と書かれています。</p>



<p>なにはともあれ、少々長くなりますが、さっそく本書内の加藤馨氏に関する記述を引用しましょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p><strong><mark class="has-inline-color has-vivid-red-color">ケーズデンキ</mark></strong></p><p>「ケーズデンキ」と社名が変わる前「カトーデンキ」の会長さんが店に来た。<br>「石岡市内に大型店舗の用地を探しているのですが」<br>と、丁重な言葉づかいだ。今では「ケーズデンキ」といえば県下で知らぬ人はいないが、このころ石岡あたりでは、まだ「<mark class="has-inline-color has-vivid-red-color"><strong>カトーデンキ</strong></mark>」の名はあまり知られなかった。<br>　私は六号国道付に適当と思われる土地があったので説明を始めた。<br>「六号国道付は良くない。石岡の第二級道路付がよいのですが」<br>「六号国道付なら宣伝効果もよく、大型店舗としては一番よいと思いますが、どうして国道付は良くないのですか」<br>「国道は交通量が多くて、店に出入りが容易でない。店にお客さんが入りやすいこと、これが第一の条件となるのです」<br>　なるほど実際に経験したことがある。特に交差点の近くなどは出入りが非常に困難だ。<br>　その日は会長さんの希望する適当な物件が無かったので、案内もできなかった。早急に物件を探すことを約束して別れた。<br>それから八方手をつくし、<strong><mark class="has-inline-color has-vivid-red-color">第二級の道路付土地を探しあて</mark></strong>現地を見てもらう。<br>「面積が少し小さいけれど、外に満足するような物件がなければやむを得ない。ここはどうにか納得できる範囲だから契約を進めましょう」<br>　土地売買契約を済ませた後、いろいろの話をしている中で、次のように話してくれた。<br>「私は新規に店を出すときには、まずその土地の市役所に行き、周辺のすべての状況を聞いてから、調査をして出店の可否を決定するのです。そこで地元の<strong><mark class="has-inline-color has-vivid-red-color">不動産業者で信用できる人を教えてもらいます</mark></strong>。あなたのことも市役所で教えてもらいました」<br>「どなたが教えてくれたのですか」<br>「それは教えられません」<br>どなたか分からないけれど市役所の職員に感謝した。市役所での用事は窓口で済むことばかり、特別な知り合いもいない。石岡には大きい不動産業者も多くある。私など小さい方から数えたら早い存在であった。だれが教えてくれたのか、ただただ感謝するばかりであった。これからはより以上に、だれからも信用される仕事をしなければと心に誓う。<br>　用地の取得もすみ、<strong><mark class="has-inline-color has-vivid-red-color">店舗の建築設計書を見せてもらい驚いた</mark></strong>。用地は南が大通り、東と北に道があり三方道路であった。図面では北側に建物ができるようになっている。これでは走行中の車から、建物は見えない。<br>「店舗を前の方に建て、駐車場は東と北の道路を利用したら有効ではないでしょうか」<br>「酒井さん。お客さまはわがままです。奥の方に駐車場があったのでは入ってくれません。一番入りやすい<strong><mark class="has-inline-color has-vivid-red-color">所を駐車場にしなければ駄目なのです</mark></strong>。お客様は神様、神様が納得してくれないと商売にならないのです」<br>　「カトーデンキ」の会長さんには、その外にもいろいろのことを教えて頂いた。</p><cite>酒井武雄 著「自分史 この石が食べれたら　──モンゴル抑留──」（印刷 有限会社豊印刷）<br>※<mark class="has-inline-color has-vivid-red-color">赤字</mark>は加藤馨氏が蛍光マーカーを引いた場所</cite></blockquote>



<p>石岡店出店は1983（昭和58）年7月。加藤馨氏がカトーデンキ販売社長の座を加藤修一氏に譲った翌年です。石岡店は、水戸市、勝田市に続く新規出店エリアで、本書でも「このころ石岡あたりでは、まだ『カトーデンキ』の名はあまり知られなかった」と書かれています。当時は、水戸市内で多店舗展開し、ようやく新規エリアへの出店を始めた時期。石岡店はカトーデンキ10店舗目で、新規出店エリアで成功するためのノウハウも決して多かったとは言えません。そのような時期に加藤馨氏がどのように物件を探して、何を重視して物件を選んでいたのか、うかがい知ることが出来る貴重な記述です。</p>



<p>まず興味をひくのが、市役所で地域の情報を仕入れるとともに信用できる不動産業者を教えてもらっていたということ。加藤馨氏は、社員を雇うようになった際にも職業安定所のアドバイスを聞き入れながら、求職者にとって応募したくなる条件（賃金や休日）を変更しましたが、出店地選びでも同様に市役所を活用していました。そして「信用できる」と紹介された業者を、会社規模を気にすることなく、訪ねている点も興味深い点です。会社の規模よりも、取引相手が世の中の人たちに信用されているかどうかを重視していたことが分かります。</p>



<p>店舗の配置や車で買物に来る際の利便性の考え方は、今では珍しくないかもしれません。しかし、書籍で描かれているのは、ようやく水戸市外への展開を始めたタイミングです。その時点で、カトーデンキの「あるべき出店」をしっかり把握していたことも加藤馨氏の慧眼と言えるでしょう。初めての支店である「駅南店」を1971（昭和46）年出店した際にも、開発されたばかりで何もないエリアで、周辺には店舗どころか住む人もなく、「あんな田舎に店を出して、もうかるわけがない」と言われました。当時の常識とはかけはなれた立地だったのです。しかし、加藤馨氏はモータリゼーションの到来を見すえ、広い駐車スペースを確保できると踏んでいました。実際、オープンすると車での来店客は予想以上で、結果的には大当りとなりました。車で来店する利便性──後にケーズデンキが郊外中心の出店でローコスト経営を実現していった戦略は、この当時すでに確立されていたのです。交通量の多い幹線道路沿いへの出店が目立っていた1980年当時に、加藤馨氏の出店戦略を聞いた酒井氏の驚きも当然といえば当然でしょう。</p>



<p>酒井氏が入隊からモンゴル抑留までの戦争体験、さらには戦後の事業、モンゴルでの遺骨収集など、波乱に満ちた人生を自著で振り返る中、「ケーズデンキ」という項目を設けるくらいに加藤馨氏は強い印象を残しました。加藤馨氏が経営に携わっていた当時、まだまだ家電流通業界は企業数が多かったこともあり、加藤馨氏個人をクローズアップした記事はそれほど多くありません。酒井氏が届けてくださった自費出版書籍も、今ではいくら調べても出てこず、ほぼ入手不可能です。しかし、その書籍の中に印象的な出会いとして、加藤馨氏の言葉ややりとりといったエピソードが残されていたことは、とても有難いことです。この書籍を執筆し、加藤馨氏に届けていただいた酒井武雄氏には本当に感謝しかありません。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.net/wp-content/uploads/2022/02/img_0396-e1644908636213-1.jpg?w=940&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1398"/><figcaption>カトーデンキ加藤馨会長が石岡市の出店地探しに訪ねて来たエピソードが紹介されている。蛍光ペンは加藤馨氏がひいたもの</figcaption></figure><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1383">加藤馨会長の出店地探し</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>加藤馨氏と水戸の結びつき</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Feb 2022 04:27:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[創業期]]></category>
		<category><![CDATA[戦争体験]]></category>
		<category><![CDATA[テッポウユリ]]></category>
		<category><![CDATA[ユリ根の輸出]]></category>
		<category><![CDATA[千木良公民館]]></category>
		<category><![CDATA[徳川慶喜]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955（昭和30）年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">加藤馨氏と水戸の結びつき</span></a></p>
<p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1357">加藤馨氏と水戸の結びつき</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955（昭和30）年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千木良となっています。千木良村の農家に生まれ、成績優秀で鎌倉の師範学校への入学が決まっていた加藤馨氏ですが、父が急死したため進学をあきらめます。家業である農業を約5年手伝っていましたが、次兄の「農業の手伝いはやめて自分の将来の仕事に就かせないと先が大変になる」との勧めもあって軍人になりました。</p>



<p>昔は長男が家督を継ぎ、それ以外の兄弟は他家に婿入りしたり、あるいは自分の人生を切り開いていくなど独立する必要がありました。加藤馨氏にとって自分の人生の拠点となったのが、ケーズデンキ創業地である茨城県の水戸です。加藤馨氏と水戸の縁は、1941年12月25日の水戸陸軍航空通信学校への入学から始まります。翌年8月25日に卒業すると同時に加藤馨氏は通信学校用員となり、同年10月に新たに編成される第６飛行師団本部通信隊用員となりました。第6飛行師団はソロモン・ニューギニア作戦の指揮に当たる第8方面軍隷下に11月に編入され、ニューギニア東部で航空戦や船団の護衛を担当します。加藤馨氏も本部通信隊用員として着任するため、10月下旬に東京芝浦港を出航し、4日かかって本部のあるラバウルに移動しました（翌年4月に司令部をウェワクに移動）。</p>



<p>ラバウルで通信隊用員として任務にあたる中で、1943（昭和18）年8月に隊長から9月に実施される航空士官学校の学生科入学試験を受験するよう命を受けます。後日、第6飛行師団で受験した32名中１位の成績で合格。大型無線機の移設任務などを経て、同年10月1日に埼玉県豊岡町にある陸軍航空士官学校に入学。卒業後、通信科学生は全員水戸の陸軍航空通信学校で1か月間の教育があり、通信科学生20名のうち加藤馨氏を含む3名がそのまま水戸の陸軍航空通信学校付きを命じられました。加藤馨氏は少尉となり、下士官学生の教育にあたり、その後1945（昭和20）年に中尉に昇格して電波兵器教育隊で教官を務めます。そして、航空通信学校に事務員といて勤めていた芳江さんと結婚式を挙げ、加藤馨氏は電波兵器教育隊の教官として水戸で終戦を迎えました。加藤馨氏は暗号班や通信将校だったこともあり、早くから日本の敗戦を予想していたはずですから、芳江さんと結婚し、水戸で戦後の人生を歩んでいくことを決意していたのかもしれません。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="ユリ根の栽培-輸出という縁">ユリ根の栽培・輸出という縁</h2>



<p>戦後、加藤馨氏は水戸でラジオ修理店を開業し新たな生活を始めますが、神奈川から来た「よそ者」としてボロ家を借りるにも苦労しました。しかし、水戸との縁はなにも陸軍航空通信学校だけではありません。調べると奇妙な縁が見えてきます。</p>



<p>冒頭に記したように加藤馨氏の実家は神奈川県の千木良村の農家で、父は千木良村で多くの人に頼られる存在でした。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　関東大地震の後３年くらいは、この復興事業で日本の景気は良かったのですが、昭和のはじめの頃になると、全国的に不景気になり、千木良でも生活できない家庭が続出しておりました。当時村では養蚕で繭を作ってこれを売り、工場ではこれを生糸にしてアメリカに輸出して国の輸出の50％くらいを占めていましたが、アメリカが不景気になって生糸の値が半値に下がってしまったのです。<br>　この頃、私の父はどこから聞いたのかわかりませんが、鉄砲百合を村で１人作っていたのが当たって、大層高く売れて5000円（今の物価では4000万円くらい）になり、村中の評判になって、夜になると村の人々が毎日のように鉄砲百合の作り方をききに来ていました。３年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです。父は何につけてもとても熱心でしたので加藤家ではこの鉄砲百合の栽培で成功して（以下略）</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>テッポウユリは、もともと日本では食用として栽培されていましたが、明治６年（1873年）にウィーン万国博覧会に出品され話題となって以降、欧米で大人気となりました。真っ白なユリは、キリスト教において純潔を象徴する花であり、聖母マリアを象徴する花とされていることが人気の理由です。人気となった日本のユリ根は欧米への輸出が盛んになります。<a href="https://www.jacar.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="国立公文書館アジア歴史資料センターのサイト">国立公文書館アジア歴史資料センター</a>では、「ユリ根の輸出」という項目で以下のように紹介しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>明治41年（1908年）に日本から輸出されたユリ根は1200万個近く、金額で45万円近くに上っていました。また、国別の輸出統計からは、そのほとんどが欧米諸国に運ばれたこと、特にイギリスとアメリカ合衆国への輸出が抜きん出ていたことがわかります。輸出港別の統計からは、横浜港からの輸出が９割以上を占めていたことがわかります。なお、横浜におけるテッポウユリのユリ根には、一本あたり2円50銭～5円の値が付いています。</p><cite>国立公文書館アジア歴史資料センター「<a href="https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p02.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="ユリ根の輸出 ～欧米で愛好された日本の草花～">ユリ根の輸出 ～欧米で愛好された日本の草花～</a>」</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏の父も、おそらくは横浜港から輸出されるユリ根のことをどこかで耳にして、栽培を始めたのでしょう。しかし、「３年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです」と加藤馨氏が振り返っているように栽培は簡単ではなかったようです。生糸の価格暴落が発生したのは1919（大正８）年前後、第一次世界大戦が終わった後です。その後、1923（大正12）年の関東大震災で震災恐慌が起き、1927（昭和2）年には金融恐慌が発生。そのような厳しい経済環境下、ユリ根栽培の成功により、加藤馨氏の２人の兄は農学校へ、一番上の姉は和裁の学校へ、すぐ上の姉は師範学校へ入学できたそうです。末っ子の加藤馨氏も師範学校への入学が決まっていましたが、父の急死により進学をあきらめざるをえませんでした。</p>



<p>後年、経営から退いた加藤馨氏は、故郷千木良の老朽化した公民館を、1億円の私財を投じて建て替えます。落成した「相模湖町立千木良公民館」の正面入口の上には、相模湖町の町章と並んでテッポウユリの絵が掲げられていました（市町村合併され、現在は町章とユリの絵は掲げられていません）。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/02/img_0389.jpg?resize=551%2C734&#038;ssl=1" alt="千木良公民館完成式典のパンフレット" class="wp-image-1363" width="551" height="734"/><figcaption>千木良公民館の完成式典パンフレット。公民館入口上にテッポウユリの絵が掲げられている</figcaption></figure>
</div>


<p>千木良村の加藤家を支えた輸出用ユリ根の栽培。実は、徳川慶喜公もユリ根の栽培、輸出を手掛けていたそうです。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家に養子入りした後、江戸幕府最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還で将軍職を退いたのち、「自らクワを持って堀り、ユリを栽培し、外国へ送るビジネスを始めた」（明治７年の新聞）と報じられています。当時の慶喜公はまだ30代後半。静岡に居を移し、政治にかかわることなく、さまざまな趣味に没頭していました。慶喜公のユリ輸出ビジネスが成功したかどうか定かではありませんが、明治７年はウィーン万博が開催された翌年の取り組みですから、先見の明があったと言えるでしょう。水戸という新天地に居を構えて家電流通事業を興した加藤馨氏が、慶喜公とユリ栽培・輸出ビジネスでつながっているのは奇妙な縁と感じられます。今回の記事は加藤馨氏の経営思想とは直接関係ありませんが、ちょっと面白いエピソードだったのでご紹介しました。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/02/img_0390.jpg?resize=567%2C449&#038;ssl=1" alt="昭和14年当時のユリ畑" class="wp-image-1365" width="567" height="449"/><figcaption>1939（昭和14）年8月の千木良のユリ畑。写っているのは家業を引き継いだ長兄・加藤操氏</figcaption></figure>
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		<title>暗号班への配属が人生の転機に</title>
		<link>https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1327</link>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 01 Feb 2022 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[戦争体験]]></category>
		<category><![CDATA[伊集院部隊]]></category>
		<category><![CDATA[暗号班]]></category>
		<category><![CDATA[歩兵第149連隊]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 ソ満国境で発生したカンチャーズ島事件に参加して間もなく、加藤馨氏は教導学校（下士官を養成する学校）の学生募集に応募し、簡単な面接を経て入学を許可さ &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1327" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">暗号班への配属が人生の転機に</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>ソ満国境で発生したカンチャーズ島事件に参加して間もなく、加藤馨氏は教導学校（下士官を養成する学校）の学生募集に応募し、簡単な面接を経て入学を許可されます。当時の教導学校は豊橋（愛知県）にあり、1937（昭和12）年9月20日に任地を出て、9月25日に甲府の部隊に帰還します。10月1日の教導学校入学を前に、加藤馨氏は故郷千木良の実家に帰ります。入隊後はじめての帰宅で、回顧録には「何も知らされてないまま急に帰りました。母をはじめ家中喜んで迎えてくれました」（仮名遣いや表現を修正しています）と記されています。また、教導学校には上等兵でなければ入学できない規則なので、加藤馨氏は一等兵から上等兵に繰り上げ昇進。「家に帰ると家の人も近所の人も、入隊してまだ９ヶ月しか経たないのに上等兵になって帰ったので不思議に思われました」そうです。</p>



<p>豊橋の教導学校に入学して2か月後に、学校が予備士官学校に転換されたことに伴い、熊本教導学校に転校。1938（昭和13）年に教導学校を卒業すると甲府の歩兵第49連隊に帰還し陸軍伍長に任命されます。歩兵第49連隊からは45名が教導学校に入学していましたが、満州の本隊に戻る人員と甲府で新たに編成された歩兵第149連隊に配属される人員とに分けられ、加藤馨氏は後者となります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>これが生死の境となるとは誰も予想しませんでした。満州の部隊に帰った人は昭和19年のフィリピン・レイテ島の日米決戦に動員されて全滅してしまいました（16名残ったとの話です）。</p>
<cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>生死だけではありません。歩兵第149連隊では同年8月に暗号係に任命され、東京の近衛歩兵第１師団第３連隊、通称「麻布三連隊」にて約2週間暗号に関する教育を受けるよう指示されます。暗号担当となったことで、前線で命を落とすリスクが大幅に減り、さらには情報通信担当として通信機器を扱うノウハウを得たことが、戦後電器店を開業する土台となったのです。2011年の日記には「太平洋戦争の新しいDVDを5巻22～24日全部観た。私は幸運だとつくづく思った」と記述がありますが、同様の発言は他の日にも多く見られます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>北支出征にあたり、部隊間の通信が全て機密を守るため暗号電報になるため、この要員教育が東京の第１師団で２週間有り私はこの要員に指名されました。当時暗号などというものは誰にとってもはじめてでした。連隊副官が私を呼び、「この教育に参加する者はこの連隊ではお前が１人だから全部覚えて来い。後でわからないでは困る」と強く言われました。当初は勝手に私を指名しておいてこんなことをいうので、困った仕事を命じられたと思いましたが、各部隊から１名ずつ集合する教育と聞いて決心しました。（中略）そして２週間の教育を受けて帰りました。思ったより難しいことではないと感じて安心して甲府の部隊に帰りました。この教育は、勉強に使用した資料は全部秘密で返して何もなく、連隊副官が言うように頭に入れて帰りました。私はこの時、私がこの部隊の下士官の中で一番覚えのよい人ということで選ばれたと感じました。</p>
<cite>加藤馨氏「回顧録」</cite></blockquote>



<p>歩兵第149連隊の編成が完了すると、同年秋に中国北部の済南市の西方にある臨清県に派遣されます。ここで1938（昭和13）年秋から1941（昭和16）年４月まで加藤馨氏は連隊本部の暗号班長をつとめます。部下は存学中に徴兵年令になって延期が出来ず召集された大学生たちが中心。暗号係という仕事が難しいことから、大学生ばかりだったそうです。「忙しい毎日で交代で夜1時まで電報の翻訳に当たった」と加藤馨氏は振り返っています。師範学校への進学をあきらめざるをえなかった加藤馨氏ですが、頭脳明晰さと真面目に仕事に取り組む姿勢は入隊後も目を引いたのでしょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="最高の人格者-伊集院兼信大佐">最高の人格者～伊集院兼信大佐</h2>



<p>臨清県で暗号班長を務めていた当時の写真に1942年（昭和17）年7月に撮影された「伊集院部隊本部の人々」という集合写真が残されています。「私は暑さに強い方でしたが、この北支の暑さにはどうしようもなかった」との文字が添えられています。伊集院部隊の部隊長の写真も残されており、「我が隊の部隊長 伊集院大佐　私が軍人として勤務した期間で最高の人格者であった。後に少将になったと聞いている」と添え書きされています。</p>



<p>この伊集院大佐というのは、最終階級陸軍少将の伊集院兼信氏と思われます。伊集院兼信氏は1936（昭和11）年にクーデター「２２６事件」が発生した際に、陸軍歩兵少佐および歩兵第３連隊第２大隊長として、事件の首謀者の一人とされる、部下の安藤輝三大尉（後に死刑）の説得にあたったことで知られます。</p>



<p>伊集院兼信氏、安藤輝三氏ともに、統率力があり部下の信望が篤い人物でした。特に安藤大尉は、武装決起に慎重な立場を取っていたにもかかわらず、同志を見殺しにはできないと参加を決心し、決起後は統率力を発揮して徹底抗戦の姿勢を取りました。安藤大尉の部下に襲撃された鈴木貫太郎侍従長官（後の首相）は、安藤大尉について「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に語ったそうです。映画「２２６」では、安藤大尉を三浦友和が、伊集院少佐を松方弘樹が演じており、伊集院少佐による説得シーンは名場面のひとつに挙げられます。</p>



<p>ちなみに２２６事件では、加藤馨氏が入隊した甲府の歩兵第49連隊が、鎮圧部隊として東京市（当時）に出動しています。２２６事件が昭和11年２月に発生し、加藤馨氏が歩兵第49連隊に入隊したのは翌年1月。伊集院大佐と加藤馨氏の間にも浅からぬ縁を感じます。</p>



<p>なお、加藤馨氏は伊集院大佐が歩兵第149連隊の連隊長だったと記憶していましたが、これは事実と違うようです。伊集院兼信氏は、1939年（昭和14年）3月に陸軍歩兵大佐となり、同年12月に歩兵第210連隊長に就任しています。加藤馨氏が暗号班にいたのは、先にも記したように1938（昭和13）年秋から1941（昭和16）年４月までです。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/ijuinbutai.jpg?resize=692%2C498&#038;ssl=1" alt="加藤馨氏のアルバムから伊集院部隊所属時のページ" class="wp-image-1338" width="692" height="498"/><figcaption class="wp-element-caption">昭和14年7月の時点で加藤馨氏は22歳。暗号班の部下は召集された大学生が中心</figcaption></figure>
</div>


<p>この時期の歩兵第149連隊（第101師団）は、1938（昭和13）年春に徐州作戦に参加、同年7月から10月にかけて南昌の北方廬山の中国軍を攻撃、10月25日に徳安城を落として終結させています。その後、1939（昭和14）年３月には南昌作戦に参加し、作戦開始後10日で南昌を陥落させ、その後南京へと移動しました。</p>



<p>一方、伊集院大佐が連隊長を務める歩兵第210連隊（第32師団）は、1939（昭和14）年12月に編成されてのち、山東省西部の警備業務に従事しています。加藤馨氏が暗号班長を務めていた臨清県は、まさに山東省西部。臨清と南昌では約1000㎞の距離があります。このあたりは、加藤馨氏が偕行社に出した質問状でも、偕行社から「第149連連隊長は津田辰彦大佐であり、伊集院兼信大佐は歩兵第210連隊の連隊長です」と回答されています。加藤馨氏が自身の所属部隊を間違えて記憶していることは考えられません。同時の陸軍の状況はわかりませんが、師団が異なるものの、加藤馨氏は歩兵第149連隊に所属しながら、臨清県で伊集院連隊長のもと暗号班の任についていたのでしょう。腕の立つ暗号解読の人材が豊富ではなかったのかもしれません。</p>



<p>加藤馨氏の戦時中のアルバムを見ていると、伊集院大佐への「最高の人格者」という一文だけでなく、他の人に「部下思いの副官」「全員に忌われている」（原文ママ）「鬼中佐」と添えられている写真もあります。人の命が軽く扱われ、上官の命令は絶対という軍隊生活の中で、加藤馨氏も人間のいろいろな面を見てきたはずです。戦後起業した加藤馨氏が「正しく生きる」という言葉を常に説き続けてきた背景には、極限下での人間の行動を目の当たりにした経験、どのような状況でも「正しさ」を失わない人との出会いなどが含まれているのでしょう。環境が整っていて余裕があるから「正しいことをする」のではなく、どんなに厳しい状況に置かれていても常に「正しいことをする」――この考え方が、戦後ラジオ修理店を開業してから、混売店、量販店へと会社を大きくしていった加藤馨氏の経営思想です。</p>



<p></p>



<p><br></p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1327">暗号班への配属が人生の転機に</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>入隊して最初の前線</title>
		<link>https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278</link>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Jan 2022 02:59:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[戦争体験]]></category>
		<category><![CDATA[カンチャーズ島事件]]></category>
		<category><![CDATA[中国残留夫人]]></category>
		<category><![CDATA[歩兵第49連隊]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kato-keiei.com/?p=1278</guid>

					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏は小学校での成績が良く、卒業後は鎌倉の師範学校への推薦入学が決まっていました。しかし、父が急死したため進学を断念。家計を助けるために長兄の &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">入隊して最初の前線</span></a></p>
<p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278">入隊して最初の前線</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>加藤馨氏は小学校での成績が良く、卒業後は鎌倉の師範学校への推薦入学が決まっていました。しかし、父が急死したため進学を断念。家計を助けるために長兄の農業（百合や野菜の栽培）を手伝います。約5年間農業を手伝いましたが、このままでは将来の展望もないと、次兄の勧めもあって1936（昭和11）年8月に陸軍の入隊検査を受けます。検査に合格し、翌年1月10日に甲府の陸軍歩兵第49連隊に入隊。約1ヶ月の基礎教育を受け、満州に展開していた本隊と合流するべく、2月に広島港から中国・大連、そこから陸路で満州国北部のソビエト国境に近い北安という町に向かい（現在の黒竜江省黒江市）、やや離れたところにある宿舎に到着します。このとき馨氏は19歳。5月5日に20歳の誕生日を迎える直前でした。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>一番先にびっくりしたのは寒さでした。2月半ばでしたが一番寒い日は零下38度になり、生れて初めてこの寒さを体験しました。</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>厳しい寒さの中、3ヶ月の教育訓練を経て加藤馨氏は一等兵となります。その直後、1937（昭和12）年6月に乾岔子島事件（カンチャーズ島）事件（<a rel="noreferrer noopener" title="Wikipediaで見る" href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E5%B2%94%E5%AD%90%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6" target="_blank">Wikipediaで見る</a>）が発生します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>この６月にソ満国境のアムール河の中にある小さな島をソ連軍が占領したとのことで、我が部隊に出動命令が来て連隊長以下全員出動しました。この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました。この日の夜、近くの集落に野営しましたが、隊長以下全員死んだように寝てしまいました。この夜、私は夜10時から２時間歩哨（寝ないで番をする役）をしましたが、交代時間になっても誰も来ません。夜が明けるまで一人で寝たり起きたりしながら歩哨を務めましたが、もしソ連軍が攻めてきたら我が部隊（約500名）は全滅になるところでした。</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏にとっての最初の戦争体験となったカンチャーズ島事件について、『戦史叢書　第027巻　関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』には以下のような記述があります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>そのころ満州の北部正面の防衛を防衛を担任していたのは、前年五月渡満した第一師団（長　河村恭輔中将－15期）で、当時その主力を斉斉哈爾（チチハル）に集結し、一部を北安に配するとともに、また黒竜江岸の要地にはそれぞれ一小部隊を出して監視に当たらせていた。（中略）</p><p>前述の事態を知った関東軍（軍司令官　植田謙吉大将）は、六月二十二日、軍参謀長（東條英機中将）電により中央部に報告するとともに、第一師団に対し有力な一部を現地に派遣するように命じ、また取りあえず満州国外交部を通じ、哈爾浜在住のソ連総領事に対し申し入れの措置を執った。二十四日参謀本部は次長（今井清中将－15期）電をもって東條軍参謀長にあて「満州領たることが明らかな領土が、ソ連によって不法に占拠されることは、将来に及ぼす影響が重大と思われるので、今後とも適宜の処置によって旧態の保持に努められたし」と指示し、強い態度に出ることを要求した。</p><cite>『戦史叢書　第027巻　関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』より　<a href="http://www.nids.mod.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="防衛研究所">防衛研究所</a>「戦史資料・戦史叢書検索」</cite></blockquote>



<p>ここで記されている第一師団に加藤馨氏が所属する歩兵第49連隊が含まれていました。北安に配されていた主力部隊として、「有力な一部を現地に派遣」され、「旧態の保持に努められたし」と命じられます。</p>



<p>満州国とソ連の国境では、両国間で国境の解釈をめぐり紛争が頻繁に発生していました。6月のカンチャーズ島事件では、満州国が自国領土としていたカンチャーズ島に約20名のソ連兵が上陸。満州国の点灯夫や採金夫を退去させ、続いて黒竜江のもう少し上流にある島でも立ち退きを要求します。関東軍としては、ソ連がこの2島を足場にすると満州国への侵攻が容易になるため看過できない事態でした。</p>



<p>強い対応を命じられたものの、現実に派遣された部隊は、加藤馨氏の証言によると「この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました」。地図を見ると距離は250㎞ほど、歩兵は装備を担いで徒歩で急行するのですから疲労も当然でしょう。とても「今後とも適宜の処置によって旧態の保持に努め」られるような状態ではなく、ソ連軍が攻めてきたら全滅しかねなかったのです。</p>



<p>その後、武力行使を中止するようにという示達が関東軍司令部に届きますが、現場に伝わる前に前線で動きが生じます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　現地においては関東軍の意図に基づき、第一師団河村中将は、旅団長の指揮する歩兵第四十九連隊の歩兵約一大隊（歩兵砲属）、砲兵一大隊、工兵一中隊を期間とする部隊を河岸に近く展開し、侵入するソ連の艦艇に対して随時これを射撃するとともに、ソ連が不法占拠した島を奪還する準備を進めていた。まさに一触即発の状態にあった時、中央部から武力行使中止の意が伝えられ、植田関東軍司令官は第一師団長に対しその旨を命令した。<br>　しかるにその命令と相前後して、六月三十日ソ連の砲艇三隻が両島の南水道に侵入し来たり、急速度をもって遡航しつつ、わが部隊に対し射撃を加えた。これに対し、わが歩兵部隊は、自営防衛のため反射的にこの砲艇に砲火を浴びせ、たちまち一隻を撃沈し他の一隻に損傷を与えた。<br>　現場の空気は一瞬緊迫するに至ったが、その後、日ソ両軍とも冷静な態度を維持し、事件はそれ以上拡大しなかった。</p><cite>『戦史叢書　第027巻　関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』より　<a href="http://www.nids.mod.go.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" title="防衛研究所">防衛研究所</a>「戦史資料・戦史叢書検索」</cite></blockquote>



<p>加藤馨氏は、偕行社刊『偕行 平成24年6月号』に寄せられた「陸軍墓地シリーズ第30回 甲府陸軍墓地」の記事について偕行社に質問状を送ったことがあり、その中で「カンチャーズ島事件でソ連の船舶１隻撃沈というのは誤りで、撃沈していないのではないか」と指摘しています。これに対し偕行社は戦史叢書の記述を紹介し、「この記事で間違いないものと思われます」と回答しています。事実関係はともかく、戦史叢書に「自営防衛のため反射的にこの砲艇に砲火を浴びせ、たちまち一隻を撃沈し他の一隻に損傷を与えた」と書かれているような勇ましい戦いではなかったものと推測されます。</p>



<p>父が急死したため師範学校への進学をあきらめざるをえず、「当時は私のように村の小学校卒業の人の行く先は警察学校に入って巡査になるか、軍隊に入って軍人になるか」（回顧録より）だったため、軍人の道を選んだ加藤馨氏。1月に入隊し、2月に前線に移動して3ヶ月の訓練を受け、すぐ6月に派遣された最前線で、戦争の現実を目の当たりにしたのでしょう。幸運にも生き延びた加藤馨氏は、その後下士官を養成する教導学校に応募します。その後暗号担当となり、航空通信将校への道を進みました。一方、歩兵第49連隊は、1944年にレイテ島で大部分が壊滅します。最初の戦争体験は、決して軍人としての成功を志すようなものではなかったものの、加藤馨氏のその後の人生に大きな影響を与えた出来事と言えるでしょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="引退後も戦争と向き合う">引退後も戦争と向き合う</h2>



<p>カンチャーズ事件に続き、翌年には満州国東南端国境で「張鼓峰事件」が発生。さらにその翌年、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった「ノモンハン事件」が発生します。その満州には、一般開拓22万人、義勇隊員10万人、計32万人が「分村移民」として日本から送り込まれました。国策として、貧しい農村が指名され、満州国への入植を求められ、すでに不安定だった国境付近に移住したものの、戦後取り残された日本人が多数います。</p>



<p>歴史から取り残された長野県泰阜村の「中国残留婦人」の帰国事業をNHKの番組で知った加藤馨氏は、その支援に継続的に取り組みました。戦後45年以上が経過する中、引揚者等援護事業は予算が減らされ、特に残留婦人に対する費用は、10年おきに2回のみの一時帰国、しかも往復の旅費のみと支援が限定されていました。自身も赴任したエリアでの悲しい事実を知り加藤馨氏は心を痛めたのでしょう。金銭面の支援だけでなく、帰国事業の中心にいた中島多鶴氏（自身も同村の満蒙開拓団の一人）と手紙のやりとりを重ねました。また、残留婦人と直接やりとりした手紙も残されています。</p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0328-e1643258467545.jpg?resize=430%2C615&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1290" width="430" height="615" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0328-e1643258467545.jpg?w=559&amp;ssl=1 559w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0328-e1643258467545.jpg?resize=210%2C300&amp;ssl=1 210w" sizes="auto, (max-width: 430px) 100vw, 430px" /><figcaption>加藤馨氏が1990年11月に購入した「忘れられた女たち　〜中国残留夫人の昭和〜」（日本放送出版協会刊）。文字は加藤馨氏によるメモ書き</figcaption></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-full"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" width="738" height="541" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0329-1.jpg?resize=738%2C541&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-1307" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0329-1.jpg?w=738&amp;ssl=1 738w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/img_0329-1.jpg?resize=300%2C220&amp;ssl=1 300w" sizes="auto, (max-width: 738px) 100vw, 738px" /><figcaption>加藤馨氏は赤線を引きながら本書を読んだ。掲載されている地図には北安、牡丹江という軍で赴任した地名にも赤線が引かれている。カンチャーズ島は北安の北、黒河から少し南に下ったあたり</figcaption></figure></div>



<p>1982年にカトーデンキ販売の社長の座を息子・修一氏に譲り、1995年に名誉会長に退いた加藤馨氏。中国残留婦人の番組「忘れられた女たち～中国残留婦人の昭和～」がNHKで放送されたのは1989年と思われます（同名書籍は1990年刊）。カトーデンキの経営から退いた加藤馨氏は、引退後も自身が体験した戦争と向き合い続けました。戦後の加藤馨氏は間違いなく成功者ですが、過去を賛美し現在を嘆くような姿勢はなく、あの戦争がなんだったのか、真実を突き詰め、困っている人がいれば寄り添い手を差し伸べました。その精力的な活動は、引退した成功者の「社会奉仕活動」という簡単な言葉で片付けられるものではありません。このような活動も加藤馨氏の思想を理解する上で欠かせない要素です。</p>



<p>自分の人生に活路を見出すべく軍に入隊した加藤馨氏ですが、最初の戦争体験で見た風景は原体験として強く印象付けられたのでしょう。カンチャーズ事件に関する回顧録の記述は以下のような文章で締めくくられています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>私は今でもこの日の苦しさは死ぬより苦しい１日で人間は疲労困憊したら駄目と悟りましたので以後軍人生活中この教訓を守りました。この頃満州は春で野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました。その後ソ連軍が撤退したので我が部隊も元の地に帰りました。</p><cite>加藤馨氏「回顧録」より</cite></blockquote>



<p></p>



<p></p>



<p></p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1278">入隊して最初の前線</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>戦争は悲惨、二度と起こしてはいけない</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 02 Jan 2022 07:10:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 新年明けましておめでとうございます。本年も当研究所をよろしくお願いします。さて、新年最初の記事は、加藤馨氏がある日突然幹部社員を集めて語った「戦争 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1186" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">戦争は悲惨、二度と起こしてはいけない</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>新年明けましておめでとうございます。本年も当研究所をよろしくお願いします。さて、新年最初の記事は、加藤馨氏がある日突然幹部社員を集めて語った「戦争」に関するエピソードです。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="本社幹部社員を急遽集めて語る">本社幹部社員を急遽集めて語る</h2>



<p>2012年、94歳の加藤馨名誉会長はある日、加藤修一会長（当時）に本社の役員、執行役員をはじめとする幹部を集めるように指示します。話したいことがあるとのことですが、加藤修一会長も突然の事で何を話すのか皆目見当がつきません。本社会議室に集まった幹部社員に対し、加藤馨氏は自身の生い立ち、軍人だった頃の話、さらには戦後事業を始めたことなどを語り、会社が大きく発展したことを感謝したと言います。</p>



<p>しかし、本当に話したかったことは、戦争の悲惨さ、残酷さでした。立石泰則氏著『<a href="https://www.iwanami.co.jp/book/b371358.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener">戦争体験と経営者</a>』（岩波新書）には、その時加藤馨氏が話した内容が紹介されています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>「いま、世の中で憲法改正のことなどを耳にします。そして軽々しく徴兵や再軍備、戦争の話がなされています。しかし戦争を体験した者としては、戦争などはあってはならないものです。人と人が殺し合う、そして戦地で食料がなくなると、人間は自分が生きるためにはとんでもないものを食さずにはいられなくなります。そのように、戦争は悲惨で残酷なものです。あのような悲惨な事態を二度と起こしてはいけません」<br>そしてこう呼びかけた。<br>「みなさん、よく聞いておいてください。戦争は二度と起こしてはけないものです。あってはいけないものなのです」</p><cite> 立石泰則氏著『<a href="https://www.iwanami.co.jp/book/b371358.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener">戦争体験と経営者</a>』（岩波新書） </cite></blockquote>



<p>加藤馨氏が戦争について詳細に語る機会は決して多くありませんでした。航空通信学校時代の同期生をはじめとする軍隊時代の仲間や上官との付き合い、さらには中国残留婦人の帰国事業への支援を続けたほか、事務所には戦争を検証する新聞記事やDVD、ビデオなどが多数残されています。加藤馨氏がどのように戦争をとらえていたのか、具体的に語った記述は残されていませんが、軍隊時代の仲間を大切にする一方で、理不尽で悲惨な戦争に対する批判的な姿勢が見られます。加藤馨氏が交際した元軍人の団体には、軍隊時代を賛美し、現在の日本を批判する人も少なからずいますが、加藤馨氏は明らかに異なります。</p>



<p>これには加藤馨氏の軍歴も少なからず影響しているでしょう。加藤馨氏が最前線で兵士として戦ったのは入隊直後、甲府の歩兵第49連隊としてソ連（現ロシア）と満州の国境付近に赴任していた時代です。その後は暗号班、通信隊として、勇ましい大本営発表と実際の戦況とのギャップを目の当たりにし、いち早く敗戦を予感します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>昭和17年の10月に第６飛行師団が編成されて10月の下旬に東京の芝浦港から船で南方に向い４日かかってラバウルの日本軍の基地に着きました。まだこの頃は日本軍が米軍に対して極端に劣勢だとは思っていませんでしたが、ラバウルに上陸して通信隊の業務をやってる中、日本軍の敗戰が次から次へと伝えられ、もう戦争は負けだと思うようになりました。</p><cite>加藤馨氏の手記「回顧録」より ※仮名遣いなど修正しています </cite></blockquote>



<p>また、ラバウルやニューギニアのウエワクでは、食糧不足でやせ細った兵隊を目にします。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>ウエワクはラバウルより補給が悪くて食事は普通の１／３ということで不足分は山にあるタロイモと椰子の実を拾って来て食べてました。こんなひどい戦線に大本営では何で軍を進めるのだろうと思っていました。</p><cite> 加藤馨氏の手記「回顧録」より 　※仮名遣いなど修正しています</cite></blockquote>



<figure class="wp-block-image size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/kato-keiei.com/wp-content/uploads/2021/04/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB_009-1200x900.jpeg?resize=640%2C480&#038;ssl=1" alt="ラバウル島にいた時の加藤馨氏" class="wp-image-512" width="640" height="480"/><figcaption>矢印が示しているのが加藤馨氏。「ラバウル島、毎日のように夜は米軍機（B29）の爆撃があった」と記されています</figcaption></figure>



<p>また、自身が所属していた部隊も南方戦線で玉砕します。軍隊時代の友人や上官が、玉砕あるいは消息不明となりました。戦争の理不尽、戦争を行う国の欺瞞や、兵士の命を軽く扱う姿勢を加藤馨氏は強く感じていたそうです。自身が体験した戦争に関する資料を集める一方で、1995年に発行された全国錦会世話人会編『490人の軍・戦歴譜』に加藤馨氏は以下のような文章を寄せています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>戦前の事は人に知られたくないことが多いと思いますので、あまり詳細なことを記載しないほうが良いと思います。我々は軍国主義の教育を受けた人間で、今の民主主義の時代に育った人には軍国主義の悲惨な世の中を理解することはできないと思いますから、我々は残念ながら悪い時代に生れたものです。昔から時はすべてを解決すると言われますから。</p><cite> 全国錦会世話人会編「490人の軍・戦歴譜」  ※仮名遣いなど修正しています </cite></blockquote>



<p>1995年に「今の民主主義の時代に育った人には軍国主義の悲惨な世の中を理解することはできないと思います」と記していた加藤馨氏は、なぜ2012年になって急に幹部に向って戦争の悲惨さを語ろうとしたのでしょうか。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="一年前の東日本大震災">一年前の東日本大震災</h2>



<p>その謎を解くカギが加藤馨氏の日記に残されていました。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>3月12日（月）　晴　気温11.5～0.2<br>連日冬に逆戻りの天気で寒い。午後、太平洋戦争と大東亜戦争の話をしにケーズ本社で約１時間10分行う（全部話すには２時間かかると思う）。40名位のケーズHDの本社の人々に話題が残ってくれると良いと思うが。</p><cite>加藤馨氏　2012年日記より</cite></blockquote>



<p>日付は2012年3月12日の月曜日。2011年3月11日に発生した東日本大震災の1年後です。その前日、震災が発生してちょうど一年の日記には以下のように記されています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>3月11日（日）　晴　気温8.9～0.7<br>夜の中に零度以下になったらしく温度計は1.5°だが氷が張りついた。<br>１年前の大地震の記念日で全国で式典があった。東北３県はもとより東京で記念式典。天皇、皇后とも出席。総理大臣の式辞に感心した。</p><cite> 加藤馨氏　2012年日記より </cite></blockquote>



<p>「総理大臣の式辞に感心した」とあるのは、当時の野田佳彦総理大臣の『<a rel="noreferrer noopener" href="http://www.kantei.go.jp/jp/noda/statement/2012/0311sikiji.html" target="_blank">東日本大震災一周年追悼式　内閣総理大臣式辞</a>』（リンク先は首相官邸）を指します。リンク先をぜひ見ていただきたいのですが、野田総理は式辞で三つの誓いを立てています。</p>



<p>一つ目は「被災地の一日も早い復興」。二つ目は「震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくこと」。三つめは「私たちを取り結ぶ『助け合い』と『感謝』の心を忘れないこと」です。『感謝の心』は加藤馨氏が大切にしていた言葉です。教訓を未来に語り継ぐとともに、支援に感謝し国際社会に貢献して恩返ししていく。そして、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携(たずさ)えて、「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしていく――強いメッセージです。</p>



<p>東日本大震災から一年、この式辞に感銘し、自身が伝えるべき教訓、つまり「戦争の悲惨さを伝えたい」という気持ちが湧き上がり、急遽本社幹部を集めさせたのではないでしょうか。「本社の人々に話題が残ってくれると良いと思うが」と日記には書かれています。加藤馨氏が話した時間は1時間10分ですが、全部話すには2時間はかかると日記に書かれていますから、とても語りきれなかったのでしょう。</p>



<p>加藤馨氏は、戦争について語ったこの日から４年後の2016年3月19日にこの世を去ります。まさに、後世の人々に向けた加藤馨氏の最後のメッセージといえるでしょう。</p>



<p>1995年に「我々は軍国主義の教育を受けた人間」「我々は残念ながら悪い時代に生れた」と記していた加藤馨氏を突き動かした野田総理の東日本大震災での追悼式辞。当日加藤馨氏が話した言葉は、残念ながら文書として残されていませんが、研究所では経営面だけでなく、加藤馨氏の軍隊時代についてもしっかり調査研究し、「戦争は起こしてはならないもの」という加藤馨氏の思いを伝えていきたいと考えています。</p>



<p>新年早々重い話となりましたが、一年の始まりだからこそ、そして約２か月後の3月11日に向けて、ぜひ紹介したいと思い今回の話を書かせていただきました。本年もどうぞよろしくお願いします。</p>



<h3 class="wp-block-heading" id="1月4日-火-追記">【1月4日（火）　追記】</h3>



<p>　当時の加藤馨名誉会長の話を聞いた方から連絡をいただきました。<br>　その日、加藤馨氏は戦争について話した後、当時強権的な政治手法や歴史修整主義的な発言で話題となっていた政治家の名をあげ、「あのような人が一番危ない。危険な人物というのは、表面はみなに良いようにして近づいてくる。だまされてはいけない」と話したそうです。さらには「ケーズの人間は絶対に戦争を起こすような社会にしてはいけない」と強調されたとのこと。当時、日本が起こした戦争を「正義の戦い」とするような発言が世間で見られたことに、加藤馨氏は大きな危機感を抱いていたのでしょう。そのような中、野田総理の東日本大震災一周年追悼式の式辞に背中を押され、加藤馨氏は「行動」されたものと思われます。<br>　連絡をいただいた方は、加藤馨氏の話を聞き「とても深く感銘した事を覚えています」と話しています。加藤馨氏が日記に「人々に話題が残ってくれると良いと思うが」と記したように、ぜひ話を聞いた方は語り継いでいってほしいと思います。</p>



<p></p>



<p></p>



<p></p>



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		<title>引退後の加藤馨氏の交流</title>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 19 Nov 2021 04:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[人を大切にする経営]]></category>
		<category><![CDATA[正しい人生]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 加藤馨氏の残したたくさんの資料には、手紙やはがきなども含まれます。軍在籍時代の同期生や教え子、戦後電気店を始めてからの同業者、故郷の恩師や学友、ま &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/1109" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">引退後の加藤馨氏の交流</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>加藤馨氏の残したたくさんの資料には、手紙やはがきなども含まれます。軍在籍時代の同期生や教え子、戦後電気店を始めてからの同業者、故郷の恩師や学友、また兄弟をはじめとする幅広い親族。いろいろな人とのつながりを大切にしてきた加藤馨氏は、体力的に遠出が難しくなってからも手紙のやり取りを続けていました。また、旬の食べ物などを贈っており、誰に何を贈ったかをしっかり記録するとともに、相手がお礼の手紙を書く手間がかからないよう、受領確認の返信用連絡ハガキを同封するなどしていました。</p>



<p>加藤馨氏が送った手紙の文面はそれほど残っていませんが、加藤馨氏宛てに送られたさまざまな返信の手紙を見るだけでも、加藤馨氏の温かい人間性が浮かび上がってきます。今回は、元従業員や取引先とのやりとりを紹介しましょう。</p>



<p>加藤馨氏は、人を採用するにあたっても、雇って使えなかったら首を切るといった無責任なことはしませんでした。採用にあたっては、その人がどのような暮らしをしていて、家族構成はどうか、その人の仕事や人生において何が課題で、どのような目標が必要なのか、しっかり考えていました。まだ柳町に一店舗しかない当時で、全従業員の顔が見える規模だったとはいえ、加藤馨氏の従業員を大切にする姿勢は際立っています。ある意味、従業員にとって加藤馨氏は、師匠であり、親のような存在だったと言えるでしょう。この姿勢は、取引のある証券会社の担当者などに対しても変わりありません。</p>



<p>加藤馨氏が名誉会長に退いたのは1995（平成7）年ですが、それから10年以上経っても、元従業員や取引先とのやり取りが続いていました。そのようなやりとりから、いくつか文章を紹介しましょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote has-text-align-left is-style-default is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p><strong>2006（平成18）年12月　元取引先（証券会社）からの手紙</strong><br>先日はおいしいりんごを頂き誠に有難うございました。又、在職中は大変お世話になり、人の道をたくさん教えて頂き心より感謝いたしております。</p><p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p><p><strong>2008（平成20）年10月　元従業員の手紙</strong>（※1958（昭和33）年入社、7年後に家電メーカーに転職）<br>今の私があるのは十代二十代の時、加藤電機商会に勤務した事であります。五十手前の旦那さんの教えをいつも心の隅に置き、定年になるまでその教えを守り続け、長年の仕事を無事に終えることが出来ました。本当に有難うございました。<br>感謝の念でいっぱいでございます。今でもあの頃の夢を見る事があります。<br>旦那さんに是非お会いしたく存じます。あの頃の自分に戻り、また、この後も旦那さんよりご指導を得たいと思い、お言葉にあまえてお伺いいたしたく思います。　<br>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p><p><strong>2013（平成25）年7月　元役員からの手紙</strong><br>会長のお元気な文章にふれることが出来るだけで幸せを感ずる者ですが、さらにお心遣いを頂き、万感の想いであります。</p><p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p><p><strong>2006（平成18）年10月　　加藤馨氏の日記</strong><br>元社員だった〇〇さんと△△さんの2人が表敬訪問で来た。‥‥ひたちなか市のブルーマリンに昼食に行く。今までの人生や両名ともに一人娘がいて結婚して、1人は孫が生れたとのことで、写真まで持って来てくれた。私が89才になるのだからご両名ともに60才を過ぎているが、しっかり者の２人だ。これからも幸せで暮すことを願っている。</p><p><strong>同上</strong><br>元社員だった〇〇さんが来てイナゴの佃煮を持って来てくれた。良く働く人で退職後もこうしてくれる心に感謝したい。</p><cite>加藤馨氏宛てに送られた手紙、加藤馨氏の日記より抜粋　※一部漢字や表現を読みやすく手直ししております</cite></blockquote>



<p>これらの文章は、単なる仕事上の関係でのやりとりではありません。「人の道をたくさん教えて頂き」「旦那さんの教えをいつも心の隅に置き（中略）守り続け」という言葉からは、雇用関係や取引だけでなく、加藤馨氏が、自分と関わった人たちが正しい人生を歩んでいけるように導いていたことが分かります。経営から離れてからも、加藤馨氏は創業祭での講演で「正しい人生を送る」大切さを常々話していましたが、一店舗しかなかった当時からその考え方にぶれがなかったことが分かります。</p>



<p>近代日本の羅針盤と呼ばれた明治の政治家、後藤新平の言葉に「<strong>財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上なり。されど財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し</strong>」があります。2020年2月に亡くなったプロ野球の野村克也氏が大切にした言葉として知られていますが、目先の成果を求めるのでなく、人との関わりを通じ、関わった人たちを正しい生き方に導いた加藤馨氏の生き方に通ずるものがあります。また、加藤電機商会からカトーデンキ、ケーズデンキと事業を継続成長させてきたからこそ、加藤馨氏の教えが今も残り、私たちが知ることができるのです。</p>



<p>「正しく生きる」姿勢には、加藤馨氏の幼少からの家庭環境、そして戦争体験が色濃く反映されているのでしょう。そして、その「正しく生きる」姿勢が、ケーズデンキの「がんばらない経営」「わが社の信条」の原点であり、ケーズデンキを飛躍的に発展させた原動力となったのではないでしょうか。</p>



<p>大きな組織でも、小さな組織でも、あるいは短期的な取引や付き合いでも、自分に関わった人から人生において得るものがあったと後々感謝されるような行動ができているか。多くの人は、好き嫌いや主義主張の違いで、人との付き合い方が変わってしまいがちです。加藤馨氏に直接教えを乞うことは今となっては不可能ですが、加藤馨氏の人生や考え方を研究し、伝えていくことで、間接的ではあっても加藤馨氏の教えを受け継ぎ、後世に伝えていくことができると当研究所では信じています。</p>


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<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/kato-keiei.com/wp-content/uploads/2021/11/img_6346-1-scaled-e1637118382972-1200x900.jpg?resize=658%2C493&#038;ssl=1" alt="加藤馨氏宛ての元従業員や取引先担当者の手紙" class="wp-image-1117" width="658" height="493"/><figcaption>元従業員やと取引先担当者からの手紙。退職後も事務所に加藤馨氏に会いに訪れていた元従業員も少なくない</figcaption></figure>
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		<title>ケーズの「社風」を伝える</title>
		<link>https://ryutsu-biz.co.jp/archives/964</link>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 01:56:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[井川留雄]]></category>
		<category><![CDATA[暗黙知]]></category>
		<category><![CDATA[社風]]></category>
		<category><![CDATA[関西ケーズデンキ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 「月刊IT&#38;家電ビジネス」2008年6月号に関西ケーズデンキの井川留雄社長（当時）のインタビュー記事が掲載されています（ちなみに取材・執筆 &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/964" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">ケーズの「社風」を伝える</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>「月刊IT&amp;家電ビジネス」2008年6月号に関西ケーズデンキの井川留雄社長（当時）のインタビュー記事が掲載されています（ちなみに取材・執筆したのは投稿者です）。2004年にギガスケーズデンキは八千代ムセン電機を子会社化します。社名を関西ケーズデンキに改め、2008年4月1日付でケーズホールディングス取締役兼関西ケーズデンキ専務だった井川氏に社長に就任します。井川氏は1971（昭和46）年にカトーデンキに入社した生え抜きで、八千代ムセン電機創業家から経営のバトンを引き継ぎます。もっとも、2005年6月に井川氏が関西ケーズデンキ取締役に就任して以降、創業家は経営に「ほとんど口出ししなかった」そうです。</p>



<p>インタビューは、井川氏が関西ケーズデンキの社長に就任したタイミングで行われました。当時筆者が取材、執筆したときには気づきませんでしたが、研究所を立ち上げた今改めて記事を読むと、実にケーズデンキらしい、創業精神にあふれた発言を井川氏はされています。そのような発言をいくつか紹介しましょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>——八千代ムセンがケーズとの事業統合を決めた背景には、競合激化による業績不振があったと思うが、苦戦した理由は？<br><strong>井川</strong>　商品を販売するカはあったと思う。スケールメリットがなかったことが大きいのではないか。<br>——当時、売上高や経常利益など表面上の数字は悪くなかった。<br><strong>井川</strong>　そう。だからこそ、当初はケーズに対する反発も強かった。店長や本部の人でさえ、なぜ自力でやっていけるのに、ケーズと組まなければならないのか、という雰囲気があった。<br>——その意識をどう変えた?<br><strong>井川</strong>　そこは、やはり皆と話し合うということだ。八千代ムセンから本社に異動した人間もいたので、財務状況などの実態について社員がだんだん理解していった。今は皆、ケーズと一緒になってよかったと喜んでいる。<br>——各店舗を積極的に回って、コミュニケーションを図った？<br><strong>井川</strong>　そうだ。最初に赴任した際に、私がここに来た意味は何だろうかと考えた。<strong>私はケーズの社歴も長いので、おそらくはケーズの社風を皆に伝える役目なのだろうと。だからこそ、コミュニケーションを大切にしてきた。</strong>最初は関西の社員にも、反発心や不安があったので、あまりケーズ色を押し付けないように気をつけた。ダメなことはダメというが、どちらでもいいようなことは、ある程度大目に見て、自分でやらせるようにした。</p><cite> リック刊「月刊IT&amp;家電ビジネス」2008年6月号より　以下同</cite></blockquote>



<p>M&amp;Aで一緒になったとはいえ、ケーズデンキと八千代ムセン電機はもともと別の会社です。「お客様のために」という考え方はどの会社でもうたっていますが、経営者の考え方、会社が成長して来たプロセスが異なれば、当然「社風」は異なります。社風という言葉はよく使われますが、実は大きな深い意味を持つキーワードです。有価証券報告書などで「事業の概要」「経営方針」などで説明される内容、あるいは「業績説明」などは、あくまで事業の概要や結果をまとめたものにすぎません。さらには、「社是」「コーポレートアイデンティティ」なども明文化（文書化）された会社のあり方を表現したものです。</p>



<p>しかし、「社風」は別物です。会社の経営方針、あるいは経営思想に基づいて、従業員が行動し、組織として評価判断してきた過去の経験を蓄積した結果生じる、集団の<strong>「暗黙知」（明文化できないノウハウ）</strong>です。上司が「こうしなさい」「こうあるべきだ」と言葉で指示をしても、必ずしも従業員がその通りに行動するとは限りません。ネガティブな社風が蔓延していれば、どのような指示が出ても従業員はネガティブな判断や行動をとります。厳しいノルマとルールで労働生産性を高めようとしてもうまくいかないのは、罰を恐れた従業員が自己保身的な行動に走るためです。同僚のことは他人事、自分さえよければいい——こんな社風になれば、いくら個人の営業成績がよくても、会社全体としての生産性は低下します。さらには、お客様に対する態度も「とにかく買ってもらえればOK」となり、無理な販売が多くなり、会社としてのイメージも低下します。</p>



<p>逆に優れた「暗黙知」が確立されていると、明文化されたルールに該当しない状況が発生しても、「当社としてはこうするべき」と正しい行動がとれます。人間は集団生活する生き物ですから、周囲の行動や考え方に影響されます。周囲の多くの人が「正しい」と思われる行動をしていれば、「正しくない」行動は目立ってしまうため、自然と抑制されます。社員が漠然と感じている「この会社はこういう会社だ」という意識が「暗黙知」であり、「社風」としてあらわれるのです。社風は指示やルールでコントロールできるものではないからこそ、井川社長（当時）は頭ごなしに指示するのではなく、「コミュニケーション」によって自身の経験や思いを伝えることを大切にします。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>——05年10月に赴任して、まず変えなければと思ったことは？<br><strong>井川</strong>　やはり社風だ。両社では、社風が大きく異なる。どちらかといえば、ケーズが独特という面もあると思うが。<br>——具体的には？<br><strong>井川</strong>　八千代ムセンは個人の数字を重視する成果主義。売り上げがよければすぐ店長になれ、給料も上がる、だから頑張ろうという意欲は強い。しかし、売れる人だけが売ればいいという風潮にどうしてもなりがちだった。<br>　一方、<strong>ケーズは、加藤社長が常々言っているように、無理売りなどはしないし、売り上げ数字ばかりを追うようなこともない。全体として売り上げが上がればいいという考え方</strong>なので、個人の数字はあまり重視しない。<br>——成果主義で高い給料をもらっていた人には不満も出そうだ。<br><strong>井川</strong>　実際、八千代ムセンの給与体系で給料の良かった人が「給料が下がったから」と、かなり辞めたという話を聞いた。ただ、基本的には給与体系の違いで、金額はそれほど変わらないと思う。成果主義なら毎月売った分が翌月の給料に反映される。一方、ケーズは半年なり1年なりのボーナス強化というスタイルだ。現在も、現場の士気を考えて、給与体系の一部に歩合制を残している。<br>——優秀な人材をさらに伸ばすのが一般的だと思うが。<br><strong>井川</strong>　<strong>目先の数字を迫いかけると、どうしても“売りたい売りたい”となり、顧客の気持ちを大切にできなくなりやすい。大切なのは、長い目で見た上で、お客様が満足し、再び来店していただけるかということ。「目先の損得で動くな」というのがケーズの考え方</strong>だ。だからこそ、DMも打たないし、自然に売れればいいという姿勢を取っている。</p></blockquote>



<p>ケーズデンキの「社風」を井川社長は分かりやすく言葉にしています。これまでノルマや成果報酬に追われていた従業員に、「ケーズデンキでは何を一番大切にしているのか」をまず伝えます。お客様の気持ちに寄り添い、満足していただくことで、無理な販促を打たずとも「自然に売れる」ようになるのが理想。だからこそ、ノルマや個人主義には弊害があると説明し、理解、納得を求めます。押しつけではなく、店を回り、ときに酒席なども設けて、社員が納得するよう、積極的にコミュニケ―ションを図ったといいます。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>——関西の家電量販店では残業代未払いなど、労働環境について問題になる事例が目立つ。<br><strong>井川</strong>　八干代ムセンに限らず、数字を追いかける文化はあるかもしれない。実際、<strong>ケーズと一緒になって社員が一番喜んだのは、しっかり休みが取れることと、サービス残業がないということ</strong>だ。<br>——ちゃんとした生活ができないと、笑顔で接客などできない。<br><strong>井川</strong>　ケーズの「<strong>社員を大切にする</strong>」というのは、まさにそういうこと。実際、笑えない話だが、ケーズになってから離婚率が大きく下がったと言われる。家族の方も本当に困っていたと思う。やはり家庭あってこその仕事だ。<br>——とはいえ、目標数字があると、店長もなかなか休めないし、従業員のシフトも厳しくなる。<br><strong>井川</strong>　数字が悪ければ店長を下ろされる、それが恐くて頑張りすぎてしまう。<strong>無理をしなくても、数字を上げられるということを、実現させていく仕紐みが大切</strong>だ。</p></blockquote>



<p>さらには、個々人の営業姿勢を変えるだけでなく、ケーズ流を徹底することで、社員全員の生活の質を向上させることができるのだと説明します。家族を犠牲にするような働き方は長く続けられません。家族が喜ぶような働き方が実現されてこそ、社員が「やる気」になり、中途退職することなく、安心して長く勤め続けられる会社になるのです。言葉だけで説明しても伝わりません。実際に組織の運営や評価方法が変わり、多くの社員が「メリット」を実感するようになってはじめて「伝わる」のです。</p>



<p>冒頭で触れましたが、井川社長は1971（昭和46）年にカトーデンキに入社しています。ちょうど有限会社加藤電機商会が「有限会社カトーデンキ」に商号変更した年で、翌年に駅南店（現在本社ビルを建築している場所にあった最初の支店）がオープンします。ちなみに加藤修一氏が入社したのは1969（昭和44）年です。井川氏は、加藤馨社長時代から、加藤修一氏が経営を引き継ぎ、会社を大きく成長させてきた過程を身をもって体験してきました。ですから、これらの発言も、教科書的に学んだ知識ではなく、創業家の教えがいかに会社としての行動、そして実績につながってきたかを自身の経験に基づいて説明しているのです。だからこそケーズ流という「異文化」に接した元八千代ムセン従業員たちに対しても説得力があったのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="この会社に入った幸せをみなに伝えたい">この会社に入った幸せをみなに伝えたい</h2>



<p>インタビューは、生え抜きである井川氏自身についての質問で締めくくられています。雑誌記事では文言を手直ししているため、少々硬い表現になっていますが、今回はあえて当時のインタビューの発言をそのまま紹介しましょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>――最初にこの家電販売という業界に入ろうと思った動機は？<br><strong>井川</strong>　給料が高かったから。私はね、人と話すのが大嫌いだったんですよ。<br>――でもお店は人と話すじゃないですか。<br><strong>井川</strong>　ですから私、配達ですから、入ったの。その時、カトーデンキで分業制にする時だったんですよ、修理とか販売とか。それで配達募集ってなっていたから、それで配達、ああ給料もいい、じゃあいいやと。そしたら（※補　お届けした商品について）説明しないといけないとなってね（笑）　そこまで考えていなかった（笑）<br>　私が入社したとき、加藤社長が1年前（※原文ママ）に入っていましたからね。だからそういう意味で私が使いやすかったんでしょう。昔はみんな年も上で、社歴も長い。私は年下で使い勝手がいい、だから加藤社長とアンテナ設置とか、そういうのにしょっちゅう行ってましたよ。<br>――加藤さんも今のケーズに繋がる流れをよく作ってこられましたよね。一時期はセルフを重視したガレージ店舗の実験などもされたし。ああいった時のノウハウが今も残っているんでしょうか？<br><strong>井川</strong>　残っているでしょう。それはずっと引き継がれていますよ。<br>――そういったセルフ店舗のノウハウと、お客様との距離を知覚する工夫、それが融合したのが今のフォーマットかなという気がしたんで。しかし、本当にケーズの歴史をずっと見てこられたんですね。<br><strong>井川</strong>　<strong>カトーデンキに入って本当に幸せでしたよ。こんなに大きくなるとは夢にも思ってなかったし。どんどんどんどんいいふうに行って。それをみんなに分かって欲しいし、そういうふうにしてあげたいなという気持ちが強いんですよ</strong>。どっちかっていうと。<br>――子会社化された会社の上層部の方なども、最初は自身の立ち位置などに戸惑われるでしょうけど、理解されるにつれ、そういった部分についても納得されてくるんでしょうかね。<br><strong>井川</strong>　だと思うんだけどね。</p><cite>上記インタビュー記事の取材テープ起こし原稿より</cite></blockquote>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/kato-keiei.com/wp-content/uploads/2021/09/img_6102-863x1200.jpg?resize=414%2C575&#038;ssl=1" alt="月刊IT＆家電ビジネス2008年6月号 関西ケーズ井川社長インタビュー記事" class="wp-image-976" width="414" height="575"/><figcaption>「ケーズに入社して幸せだった。この思いをみんなに伝えたい」という姿勢が、M&amp;Aで仲間になった社員の心に響く</figcaption></figure>
</div>


<p>「こうしなさい」「こうあるべき」という上からの押しつけではなく、「入社して自分は本当に幸せだった。みんなにもその思いを伝えたいし、同じようにしてあげたい」という強い思い。言葉では引き継げないこのような思いこそ、「がんばらない経営」という創業精神のバトンなのでしょう。バトンを受け継げるか、引き継げずに別の会社になり果てるのかという分岐点は、このような思いを伝え、引き継ごうとする人がどれだけ社内にいるかにかかっているのでしょう。</p>



<p>会社の「資産」というのは、時価総額や総資産、総従業員数など目に見える「有形資産」だけでなく、目に見えない「<strong>無形資産</strong>」があり、その代表が「社風」です。<strong>「社風」は「暗黙知」であり、明文化できないからこそ、競合他社が知っても容易に真似できない強い競争力になる</strong>のです。経営指標や営業施策などを用いて「我が社の経営は盤石です」と説明する姿は多くの企業で見られます。経営指標が良ければ誰からも非難されにくく、わかりやすい営業施策や競合対策は社内から反対も出にくいものです。しかし、数値指標や経営方針、販促を中心とした営業施策は、真似しようと思えば真似できます。逆を言えば、手の内を知られて真似できるような施策は、本当の差別化戦略ではないということです。</p>



<p>井川氏のインタビュー記事は、加藤馨氏の残した言葉や加藤修一氏が語ってきた経営思想と見事なまでに一致しています。「こう答えるのがケーズ流」などと考えるのではなく、ごく自然に発言しています。このインタビューは、創業精神の継承において何が大切なのかを教えてくれます。創業者の言葉をただ伝えるだけでは、創業者の思いや精神まで引き継がれません。「従業員を大切にする」という考え方ひとつをとっても、離職率や有休消化率、残業時間などの指標が、世間の求める基準をクリアしてさえいれば、問題ないというわけではありません。実際に働いている従業員が、会社に大切にされていると実感し、「この会社に入って幸せだった」という思いを抱き、次の世代へと伝えていくことが、本当の意味での創業精神の継承となるのです。</p>



<p>。</p>



<p></p>



<p></p>



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		<title>アウトレット店の失敗を振り返る</title>
		<link>https://ryutsu-biz.co.jp/archives/782</link>
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		<dc:creator><![CDATA[研究所長　川添 聡志]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Aug 2021 03:23:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[会社の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[アウトレット業態]]></category>
		<category><![CDATA[創業精神]]></category>
		<category><![CDATA[勝田アウトレットセンター]]></category>
		<category><![CDATA[電器のアウトレットセンター]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。 先日古い社内報や、家電流通史の書籍を広げて調べていたところ、加藤修一氏が資料を見て「そういえばアウトレットセンターってあったね。これを見るまですっ &#8230;<br /><a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/782" class="more-link pen_button pen_element_default pen_icon_arrow_double">続きを読む <span class="screen-reader-text">アウトレット店の失敗を振り返る</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。</strong></p>



<p>先日古い社内報や、家電流通史の書籍を広げて調べていたところ、加藤修一氏が資料を見て「そういえばアウトレットセンターってあったね。これを見るまですっかり忘れてた」と笑っていました。アウトレットセンターはいわゆる型落ち商品や在庫処分品を集めた店舗で、カトーデンキでは1993年5月28日に「勝田アウトレットセンター」を一号店としてオープンさせています。</p>



<p>『家電流通再編への挑戦』（日本経済新聞社　1993年9月8日刊行）には、以下のように記述されています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　500平方メートルほどの売り場は、一見して普通の家電量販店。大型テレビや冷蔵庫、洗濯機などが並んでいるが、いずれも一、二年前に発売された「型遅れ品」だ。初夏だというのにヒーターや電気毛布が売られているのも目を引く。取扱説明書を紛失した商品も、はんぱ物として売られている。値段は四－九割引きと確かに安い。</p><cite>日経流通新聞 編『家電流通再編への挑戦』（日本経済新聞社）</cite></blockquote>



<p>もともと米国で生まれたアウトレット業態ですが、当時の日本でも安売りの新業態として注目されていたとのこと。主に不良在庫の処分（売れ残り、規格外品など）を目的した店舗ですが、カトーデンキの狙いは少々違ったようです。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　カトーデンキの真の狙いは時流に乗ることではなく、返品をなくし、チェーン全体の低コスト運営を実現することにある。カトーデンキの場合は小売り主導なので厳密に言えば原義からはずれるが、在庫処分という性格は同じ。アウトレットの店頭に並ぶのは、新製品が発売され商品価値が下がった型遅れ品や、冷暖房器具などでシーズン中に売り切れなかったものが大半だ。各店で超安値品として売ることもできる。だが、一カ所に集めた方が顧客に訴える力が強く、集客力が増すと判断し、開店した。</p><cite> 日経流通新聞 編『家電流通再編への挑戦』（日本経済新聞社） </cite></blockquote>



<p>ちなみこのアウトレット店は、新製品を扱う勝田パワフル館に隣接する場所につくられ、アウトレット店で欲しい商品が見つからなかったお客様が隣りの通常店舗をすぐ見に行けるという立地でした。売場面積500平方メートルに従業員数は３人。コスト抑制のため、チラシなどによる宣伝も行わなかったにもかかわらず狙いはズバリ当たり、オープン4日間売上は目標を28％上回る900万円を達成。加藤社長から表彰状が出たと書かれています。同書で、加藤修一社長（当時）は「将来は、チェーン店十店ごとにアウトレットを一つ作るのが目標。将来は小売店側の在庫だけでなく、メーカーの在庫も引き取って販売したい」と語り、真の狙いは「家電業界で常態化した返品をなくし低コスト経営を進めること」としています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　家電業界で返品が多い原因の一つに、商品サイクルの短さがある。関係者の話では、メーカーが新製品を家電店に売り込む際、それまで店頭に並んでいた製品を引き取ることを条件に新製品を買ってもらうケースが多いという。このほか小売店の販売計画ミス、過剰仕入れ、決算対策での返品も多い。<br>　実際に返品となると、赤伝票の作成などの事務手続き、物流コスト、売上計画の変更など、メーカー・小売り双方にコスト負担が生じ、経営圧迫の要因になる。メーカーが返品処分のため、小売店に販売促進費という名目でリベートを支払うことも多く、これが通常のリベートを圧縮する要因にもなる。</p><cite> 日経流通新聞 編『家電流通再編への挑戦』（日本経済新聞社） </cite></blockquote>



<p>このような在庫処分に関する商習慣は、現在も構図として大きく変わっていないでしょう。変わったことと言えば、家電量販店の「優越的地位の濫用」が当時より厳しく見られるようになり、無理な要求をしにくくなったこと。しかし、家電市場で6割以上のシェアを占める主要チャネルとして、家電量販店がメーカーの処分補填を「当たり前」ととらえがちな面は否めません。しかし、当時の加藤社長は、それを「リベートで補填されるからよし」とは考えず、メーカーと小売り双方がより良いビジネスをできるよう、自らアウトレット店に乗り出したのです。</p>



<p>アウトレット店については、当時の競合他社からこんな意見も出ていました。「型遅れ品は、チェーン各店で格安価格をつけて売れば立派な目玉商品になる。アウトレットに集めてしまうと各店でそうした売り方ができなくなってしまう」（栄電社 岡島昇一社長 ※当時　後のエイデン、エディオン）。</p>



<p>この書籍は1993年9月に発行されましたが、ほぼ同じ内容の記事が同年6月24日の日経流通新聞に掲載されています。まさにアウトレット店に挑戦したタイミングの記事なので、その当時の思いや熱気が伝わります。10年後に振り返って執筆された記事だったら、もっとさめた視点の記事になっていたことでしょう。そういう意味では非常に貴重な記事です。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/08/19930624nikkei_ryutsu.jpg?resize=331%2C474&#038;ssl=1" alt="" class="wp-image-787" width="331" height="474" srcset="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/08/19930624nikkei_ryutsu.jpg?w=464&amp;ssl=1 464w, https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/08/19930624nikkei_ryutsu.jpg?resize=210%2C300&amp;ssl=1 210w" sizes="auto, (max-width: 331px) 100vw, 331px" /><figcaption>1993年6月24日の日本経済流通新聞のカトーデンキ アウトレット店に関する記事　※本文が読めないよう画像を圧縮しています</figcaption></figure>
</div>


<p>当時のカトーデンキが、その後アウトレット店をどの程度展開したのか、研究所では把握しきれていません。しかし、 勝田アウトレットセンター 出店から約2年後、1995年の社内報「ひろば」には、新店として「電器のアウトレットセンター」（茨城県つくば市西郷 売場面積 約150坪）が1995年7月20日にオープンしたと紹介されています。アウトレット店を複数店展開していたことが分かります。</p>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img data-recalc-dims="1" loading="lazy" decoding="async" src="https://i0.wp.com/ryutsu-biz.co.jp/wp-content/uploads/2021/08/img_5990-scaled-e1647477839693.jpg?resize=561%2C800&#038;ssl=1" alt="社内報「ひろば」1993年" class="wp-image-789" width="561" height="800"/><figcaption>1993年の社内報「ひろば」。上から2番目に「電器のアウトレットセンター」（茨城県つくば市）が紹介されている</figcaption></figure>
</div>


<p>この当時のカトーデンキは、1991年によつば電器を買収しその立て直しに取り組みながら、1993年の北越デンキを筆頭に翌年には大宮電化、ユーアイ電器をFC化するなど、急速に拡大路線に進んでいました。また、1991年に大店法（大規模小売店舗法）の規制が緩和され、従来の売場面積500平方メートルを超える大型店への移行も始まります。その新型店舗が「パワフル館」で、1992年7月にオープンした「石岡パワフル館」は売場面積約1000平方メートル。バックヤードをなくし大半の在庫を店頭に置くことで従業員の負担を軽減するオペレーションを導入しています。</p>



<p>このようにM＆Aや市場環境の変化への対応で様々な取り組みをしていた当時に、アウトレット店も新たな試みの一つとして展開されました。加藤修一氏というと基本「待ち」の姿勢と思われがちですが、市場環境の変化への対応や業界の課題解決には率先して取り組んでいたのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="家電アウトレットが失敗する理由">家電アウトレットが失敗する理由</h2>



<p>しかしながら、アウトレット店はそれほど長く展開されませんでした。「アウトレット店はやっぱり効率が悪かった。各店で売り切る方が手間もコストもかからなかった」と加藤修一氏は振り返り、「でも、早い時期に実験して、うまくいかないと分かったのは良かったよね」と笑います。</p>



<p>実際、アウトレット店は2000年代に入ってからもいろいろな企業がチャレンジします。筆者が業界誌記者だった当時でも、セキド、ビックカメラ、上新電機、ヤマダ電機などがアウトレット専門店を展開しました。筆者に家電アウトレット店の難しさを強く感じさせたのが、有楽町に2012年2月にオープンしたビックカメラ「アウトレット有楽町店」です。旗艦店であるビックカメラ有楽町店のすぐ隣りのJR高架下のスペースにオープンし、売場面積は750平方メートル。あらゆる家電の型落ち品や再生品が所狭しと圧縮陳列され、洗濯機も２～３段展示されていました。カトーデンキのアウトレットのように４～９割引きとまではいかないものの、お買い得な価格設定だったと記憶しています。</p>



<p>どうして家電アウトレット店はうまくいかないのか。第一にアパレルなどのように製造せず、メーカーからの仕入れ品であることが要因です。商品を仕入れて販売する場合、製造原価に比べて利幅は小さくなります。当然価格訴求力にも差が生じ、激安価格にすれば原価割れ販売になります。メーカーの過剰在庫を処分価格で仕入れる、あるいは処分費などのリベート提供を求めないと採算が取れません。原価割れ販売のための店舗を出す意味はなく、結局メーカー頼みになってしまう点も商売として難しい部分です。</p>



<p>加えて、売場の販売効率の問題があります。冷蔵庫や洗濯機などを展示するには大きなスペースが必要になります。展示商品が午前11時に売れたとしても、お客様が持ち帰ることができないので、閉店後あるいはお客様が少ない時間などに商品を搬出する必要があります。搬出するまでは、「売約済み」として販売できない在庫が売場の展示スペースを占有することになります。11時に売れたら閉店時間まで「死にスペース」になるので、売れれば売れるほど売場の販売効率が下ることになります。</p>



<p>また、家電という商品の特性上、いくらアウトレット商品とはいえ、商品の説明や配送設置工事の確認などの「接客」がどうしても必要になります。コストを抑えるために店舗人員をギリギリに少なくすると、店舗運営に無理が生じます。つまり、アウトレット業態は、セルフ販売で効率を追求しないと採算性がとれないのです。</p>



<p>カトーデンキのアウトレット店は結果から見れば「失敗」でした。しかし、加藤修一氏が「早い時期に実験してうまくいかないと分かったのは良かったよね」と話すのは強がりではありません。失敗を体験して学ぶことと、やりもせずに静観するのでは得られる経験値が異なります。ローコストオペレーションを実現する上で、できること、やってはいけないことを学べたのは決して無駄ではありませんでした。また、子会社化、FC化したグループ会社から「アウトレット業態の店舗を競合が作った。このままでは負けるからうちにもやらせてくれ」と要望が来ても、体験に基づいた説得力のある否定ができます。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="ポイントカード導入中止との共通点">ポイントカード導入中止との共通点</h2>



<p>さて、加藤修一氏と言えば、FCや子会社からの要望でポイントカードを導入しようとしたものの、運用開始直前になって取り止めたエピソードがよく知られています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>　じつはケーズデンキでも、グループ会社からの強い要望で、ポイントカードの導入を考えたことがあります。そのための設備も整え、その運用法を考える最終段階で「ポイント上乗せ分を、売価にどれくらいゲタを履かせればいいのか」という話になったのです。<br>　それを聞いていた私は、ポイントをつけるばかりに売価を高く設定するというような本末転倒なことには納得できず、土壇場で導入を取りやめました。<br>　すでにカードもつくり、機械も入れ、スイッチを入れればシステムが動き出す段階でしたから、準備に要した数千万円を棒に振ることになりましたが、<strong><span style="text-decoration: underline;">お客様を惑わせるような商売をして信頼を失うよりはいい</span></strong>、と判断したのです。</p><cite>加藤修一 著「すべては社員のために「がんばらない経営」」（かんき出版）より　※下線強調は研究所がつけたもの</cite></blockquote>



<p>アウトレット店での「やってみる」と、ポイントカードの「やらずに中止する」――相反することのように見えますが、実際には同じ物差しでの判断です。それが、引用した文章の下線部分が表現しているように「<strong>正しい商売を貫く</strong>」姿勢です。アウトレット店は「家電業界で常態化した返品をなくし低コスト経営を進める」ために挑戦しました。もっと儲けようという狙いではなく、メーカーと小売り双方が抱える業界の課題を解決し、正しい商売の実現につながるからこそ、挑戦する価値があったのです。</p>



<p>一方でポイントカードは、お客様に「安いと思わせる」テクニックです。ポイント付与で安く買えたように思わせて、実際にはポイントを使える場所が限定され、お客様は不自由になります。しかも、見せかけの安さを表現するためにシステム開発、運用にコストをかけ、だますような価格表示に工夫を凝らし続けるのです。これは「正しい商売」と言えません。著書で加藤氏は以下のように書いています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p><strong>「商売の基本は信用第一。うわべだけなく本当に信頼される店になることだ」<br>これは父の口癖で、噓の広告を毛嫌いしていました。</strong></p><cite> 加藤修一 著「すべては社員のために「がんばらない経営」」（かんき出版）より </cite></blockquote>



<p>加藤修一氏が父・馨氏から学んだ「正しい商売」を、市場が大きく変化するタイミングでしっかり貫いたからこそケーズデンキの商売は発展し、子会社やＦＣなどの仲間が増えていったのです。アウトレット店も「正しい商売」を目指した挑戦だったからこそ、失敗に終わっても後悔がないのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading" id="学ぶ姿勢と正しく判断する力">学ぶ姿勢と正しく判断する力</h2>



<p>組織というのは、「失敗したから悪い」「失敗した案を出した人は責任をとれ」といった評価をしがちです。しかし、そのような風潮が蔓延すると「挑戦しないほうが得」「新しいことを言わない方が評価される」あるいは「他人の新しい意見を否定するほうが偉い」といった大企業病にかかることになります。時代の変化、市場環境の変化に対応するためには「新しい意見」「新しい試み」を常に考え、正しく判断する力を養うことが欠かせないのです。</p>



<p>経営手腕というのは、販売現場で店長として高い実績をあげたり、本部でマネジメント職に就いたからといって、自然と身につくものではありません。過去から学び、挑戦して学び、成功から学び、失敗から学び、決して終わりのない学びを継続することなのです。創業家として会社を大きくした、加藤馨氏も加藤修一氏も弟の加藤幸男氏も、何ひとつ失敗せず常に成功し続けたわけではありません。一般人と違うスーパーマンだったわけでもありません。しかし創業精神として、常に「正しい商売」のありかたを考え、貫いてきたことがケーズデンキの「がんばらない経営」の精神を築きあげたのではないでしょうか。</p><p>The post <a href="https://ryutsu-biz.co.jp/archives/782">アウトレット店の失敗を振り返る</a> first appeared on <a href="https://ryutsu-biz.co.jp">（株）流通ビジネス研究所</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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