戦争は悲惨、二度と起こしてはいけない

陸軍航空士官学校時代の加藤馨氏

※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。

新年明けましておめでとうございます。本年も当研究所をよろしくお願いします。さて、新年最初の記事は、加藤馨氏がある日突然幹部社員を集めて語った「戦争」に関するエピソードです。

本社幹部社員を急遽集めて語る

2012年、94歳の加藤馨名誉会長はある日、加藤修一会長(当時)に本社の役員、執行役員をはじめとする幹部を集めるように指示します。話したいことがあるとのことですが、加藤修一会長も突然の事で何を話すのか皆目見当がつきません。本社会議室に集まった幹部社員に対し、加藤馨氏は自身の生い立ち、軍人だった頃の話、さらには戦後事業を始めたことなどを語り、会社が大きく発展したことを感謝したと言います。

しかし、本当に話したかったことは、戦争の悲惨さ、残酷さでした。立石泰則氏著『戦争体験と経営者』(岩波新書)には、その時加藤馨氏が話した内容が紹介されています。

「いま、世の中で憲法改正のことなどを耳にします。そして軽々しく徴兵や再軍備、戦争の話がなされています。しかし戦争を体験した者としては、戦争などはあってはならないものです。人と人が殺し合う、そして戦地で食料がなくなると、人間は自分が生きるためにはとんでもないものを食さずにはいられなくなります。そのように、戦争は悲惨で残酷なものです。あのような悲惨な事態を二度と起こしてはいけません」
そしてこう呼びかけた。
「みなさん、よく聞いておいてください。戦争は二度と起こしてはけないものです。あってはいけないものなのです」

立石泰則氏著『戦争体験と経営者』(岩波新書)

加藤馨氏が戦争について詳細に語る機会は決して多くありませんでした。航空通信学校時代の同期生をはじめとする軍隊時代の仲間や上官との付き合い、さらには中国残留婦人の帰国事業への支援を続けたほか、事務所には戦争を検証する新聞記事やDVD、ビデオなどが多数残されています。加藤馨氏がどのように戦争をとらえていたのか、具体的に語った記述は残されていませんが、軍隊時代の仲間を大切にする一方で、理不尽で悲惨な戦争に対する批判的な姿勢が見られます。加藤馨氏が交際した元軍人の団体には、軍隊時代を賛美し、現在の日本を批判する人も少なからずいますが、加藤馨氏は明らかに異なります。

これには加藤馨氏の軍歴も少なからず影響しているでしょう。加藤馨氏が最前線で兵士として戦ったのは入隊直後、甲府の歩兵第49連隊としてソ連(現ロシア)と満州の国境付近に赴任していた時代です。その後は暗号班、通信隊として、勇ましい大本営発表と実際の戦況とのギャップを目の当たりにし、いち早く敗戦を予感します。

昭和17年の10月に第6飛行師団が編成されて10月の下旬に東京の芝浦港から船で南方に向い4日かかってラバウルの日本軍の基地に着きました。まだこの頃は日本軍が米軍に対して極端に劣勢だとは思っていませんでしたが、ラバウルに上陸して通信隊の業務をやってる中、日本軍の敗戰が次から次へと伝えられ、もう戦争は負けだと思うようになりました。

加藤馨氏の手記「回顧録」より ※仮名遣いなど修正しています

また、ラバウルやニューギニアのウエワクでは、食糧不足でやせ細った兵隊を目にします。

ウエワクはラバウルより補給が悪くて食事は普通の1/3ということで不足分は山にあるタロイモと椰子の実を拾って来て食べてました。こんなひどい戦線に大本営では何で軍を進めるのだろうと思っていました。

加藤馨氏の手記「回顧録」より  ※仮名遣いなど修正しています
ラバウル島にいた時の加藤馨氏
矢印が示しているのが加藤馨氏。「ラバウル島、毎日のように夜は米軍機(B29)の爆撃があった」と記されています

また、自身が所属していた部隊も南方戦線で玉砕します。軍隊時代の友人や上官が、玉砕あるいは消息不明となりました。戦争の理不尽、戦争を行う国の欺瞞や、兵士の命を軽く扱う姿勢を加藤馨氏は強く感じていたそうです。自身が体験した戦争に関する資料を集める一方で、1995年に発行された全国錦会世話人会編『490人の軍・戦歴譜』に加藤馨氏は以下のような文章を寄せています。

戦前の事は人に知られたくないことが多いと思いますので、あまり詳細なことを記載しないほうが良いと思います。我々は軍国主義の教育を受けた人間で、今の民主主義の時代に育った人には軍国主義の悲惨な世の中を理解することはできないと思いますから、我々は残念ながら悪い時代に生れたものです。昔から時はすべてを解決すると言われますから。

全国錦会世話人会編「490人の軍・戦歴譜」 ※仮名遣いなど修正しています

1995年に「今の民主主義の時代に育った人には軍国主義の悲惨な世の中を理解することはできないと思います」と記していた加藤馨氏は、なぜ2012年になって急に幹部に向って戦争の悲惨さを語ろうとしたのでしょうか。

一年前の東日本大震災

その謎を解くカギが加藤馨氏の日記に残されていました。

3月12日(月) 晴 気温11.5~0.2
連日冬に逆戻りの天気で寒い。午後、太平洋戦争と大東亜戦争の話をしにケーズ本社で約1時間10分行う(全部話すには2時間かかると思う)。40名位のケーズHDの本社の人々に話題が残ってくれると良いと思うが。

加藤馨氏 2012年日記より

日付は2012年3月12日の月曜日。2011年3月11日に発生した東日本大震災の1年後です。その前日、震災が発生してちょうど一年の日記には以下のように記されています。

3月11日(日) 晴 気温8.9~0.7
夜の中に零度以下になったらしく温度計は1.5°だが氷が張りついた。
1年前の大地震の記念日で全国で式典があった。東北3県はもとより東京で記念式典。天皇、皇后とも出席。総理大臣の式辞に感心した。

加藤馨氏 2012年日記より

「総理大臣の式辞に感心した」とあるのは、当時の野田佳彦総理大臣の『東日本大震災一周年追悼式 内閣総理大臣式辞』(リンク先は首相官邸)を指します。リンク先をぜひ見ていただきたいのですが、野田総理は式辞で三つの誓いを立てています。

一つ目は「被災地の一日も早い復興」。二つ目は「震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくこと」。三つめは「私たちを取り結ぶ『助け合い』と『感謝』の心を忘れないこと」です。『感謝の心』は加藤馨氏が大切にしていた言葉です。教訓を未来に語り継ぐとともに、支援に感謝し国際社会に貢献して恩返ししていく。そして、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携(たずさ)えて、「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしていく――強いメッセージです。

東日本大震災から一年、この式辞に感銘し、自身が伝えるべき教訓、つまり「戦争の悲惨さを伝えたい」という気持ちが湧き上がり、急遽本社幹部を集めさせたのではないでしょうか。「本社の人々に話題が残ってくれると良いと思うが」と日記には書かれています。加藤馨氏が話した時間は1時間10分ですが、全部話すには2時間はかかると日記に書かれていますから、とても語りきれなかったのでしょう。

加藤馨氏は、戦争について語ったこの日から4年後の2016年3月19日にこの世を去ります。まさに、後世の人々に向けた加藤馨氏の最後のメッセージといえるでしょう。

1995年に「我々は軍国主義の教育を受けた人間」「我々は残念ながら悪い時代に生れた」と記していた加藤馨氏を突き動かした野田総理の東日本大震災での追悼式辞。当日加藤馨氏が話した言葉は、残念ながら文書として残されていませんが、研究所では経営面だけでなく、加藤馨氏の軍隊時代についてもしっかり調査研究し、「戦争は起こしてはならないもの」という加藤馨氏の思いを伝えていきたいと考えています。

新年早々重い話となりましたが、一年の始まりだからこそ、そして約2か月後の3月11日に向けて、ぜひ紹介したいと思い今回の話を書かせていただきました。本年もどうぞよろしくお願いします。

【1月4日(火) 追記】

 当時の加藤馨名誉会長の話を聞いた方から連絡をいただきました。
 その日、加藤馨氏は戦争について話した後、当時強権的な政治手法や歴史修整主義的な発言で話題となっていた政治家の名をあげ、「あのような人が一番危ない。危険な人物というのは、表面はみなに良いようにして近づいてくる。だまされてはいけない」と話したそうです。さらには「ケーズの人間は絶対に戦争を起こすような社会にしてはいけない」と強調されたとのこと。当時、日本が起こした戦争を「正義の戦い」とするような発言が世間で見られたことに、加藤馨氏は大きな危機感を抱いていたのでしょう。そのような中、野田総理の東日本大震災一周年追悼式の式辞に背中を押され、加藤馨氏は「行動」されたものと思われます。
 連絡をいただいた方は、加藤馨氏の話を聞き「とても深く感銘した事を覚えています」と話しています。加藤馨氏が日記に「人々に話題が残ってくれると良いと思うが」と記したように、ぜひ話を聞いた方は語り継いでいってほしいと思います。

研究所長 川添 聡志

株式会社流通ビジネス研究所 所長 雑誌および書籍の編集者として出版業界に携わる。家電量販店向け業界誌『月刊IT&家電ビジネス』編集長を務めた後、家電量販企業に転職。営業企画やWebを含めた販促などを担当し、その後流通コンサルタントとして独立。ケーズデンキ創業者・加藤馨氏および経営を引き継いだ加藤修一氏の「創業精神」を後世に伝えるため、株式会社加藤馨経営研究所の設立に携わり研究所所長に就任。その後、ケーズデンキに限定せず、幅広く流通市場を調査研究するため、2022年1月からコンサルティング会社「株式会社流通ビジネス研究所」を設立し、同年4月より活動拠点を新会社に移行

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