※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。
ソ満国境で発生したカンチャーズ島事件に参加して間もなく、加藤馨氏は教導学校(下士官を養成する学校)の学生募集に応募し、簡単な面接を経て入学を許可されます。当時の教導学校は豊橋(愛知県)にあり、1937(昭和12)年9月20日に任地を出て、9月25日に甲府の部隊に帰還します。10月1日の教導学校入学を前に、加藤馨氏は故郷千木良の実家に帰ります。入隊後はじめての帰宅で、回顧録には「何も知らされてないまま急に帰りました。母をはじめ家中喜んで迎えてくれました」(仮名遣いや表現を修正しています)と記されています。また、教導学校には上等兵でなければ入学できない規則なので、加藤馨氏は一等兵から上等兵に繰り上げ昇進。「家に帰ると家の人も近所の人も、入隊してまだ9ヶ月しか経たないのに上等兵になって帰ったので不思議に思われました」そうです。
豊橋の教導学校に入学して2か月後に、学校が予備士官学校に転換されたことに伴い、熊本教導学校に転校。1938(昭和13)年に教導学校を卒業すると甲府の歩兵第49連隊に帰還し陸軍伍長に任命されます。歩兵第49連隊からは45名が教導学校に入学していましたが、満州の本隊に戻る人員と甲府で新たに編成された歩兵第149連隊に配属される人員とに分けられ、加藤馨氏は後者となります。
これが生死の境となるとは誰も予想しませんでした。満州の部隊に帰った人は昭和19年のフィリピン・レイテ島の日米決戦に動員されて全滅してしまいました(16名残ったとの話です)。
加藤馨氏「回顧録」より
生死だけではありません。歩兵第149連隊では同年8月に暗号係に任命され、東京の近衛歩兵第1師団第3連隊、通称「麻布三連隊」にて約2週間暗号に関する教育を受けるよう指示されます。暗号担当となったことで、前線で命を落とすリスクが大幅に減り、さらには情報通信担当として通信機器を扱うノウハウを得たことが、戦後電器店を開業する土台となったのです。2011年の日記には「太平洋戦争の新しいDVDを5巻22~24日全部観た。私は幸運だとつくづく思った」と記述がありますが、同様の発言は他の日にも多く見られます。
北支出征にあたり、部隊間の通信が全て機密を守るため暗号電報になるため、この要員教育が東京の第1師団で2週間有り私はこの要員に指名されました。当時暗号などというものは誰にとってもはじめてでした。連隊副官が私を呼び、「この教育に参加する者はこの連隊ではお前が1人だから全部覚えて来い。後でわからないでは困る」と強く言われました。当初は勝手に私を指名しておいてこんなことをいうので、困った仕事を命じられたと思いましたが、各部隊から1名ずつ集合する教育と聞いて決心しました。(中略)そして2週間の教育を受けて帰りました。思ったより難しいことではないと感じて安心して甲府の部隊に帰りました。この教育は、勉強に使用した資料は全部秘密で返して何もなく、連隊副官が言うように頭に入れて帰りました。私はこの時、私がこの部隊の下士官の中で一番覚えのよい人ということで選ばれたと感じました。
加藤馨氏「回顧録」
歩兵第149連隊の編成が完了すると、同年秋に中国北部の済南市の西方にある臨清県に派遣されます。ここで1938(昭和13)年秋から1941(昭和16)年4月まで加藤馨氏は連隊本部の暗号班長をつとめます。部下は存学中に徴兵年令になって延期が出来ず召集された大学生たちが中心。暗号係という仕事が難しいことから、大学生ばかりだったそうです。「忙しい毎日で交代で夜1時まで電報の翻訳に当たった」と加藤馨氏は振り返っています。師範学校への進学をあきらめざるをえなかった加藤馨氏ですが、頭脳明晰さと真面目に仕事に取り組む姿勢は入隊後も目を引いたのでしょう。
最高の人格者~伊集院兼信大佐
臨清県で暗号班長を務めていた当時の写真に1942年(昭和17)年7月に撮影された「伊集院部隊本部の人々」という集合写真が残されています。「私は暑さに強い方でしたが、この北支の暑さにはどうしようもなかった」との文字が添えられています。伊集院部隊の部隊長の写真も残されており、「我が隊の部隊長 伊集院大佐 私が軍人として勤務した期間で最高の人格者であった。後に少将になったと聞いている」と添え書きされています。
この伊集院大佐というのは、最終階級陸軍少将の伊集院兼信氏と思われます。伊集院兼信氏は1936(昭和11)年にクーデター「226事件」が発生した際に、陸軍歩兵少佐および歩兵第3連隊第2大隊長として、事件の首謀者の一人とされる、部下の安藤輝三大尉(後に死刑)の説得にあたったことで知られます。
伊集院兼信氏、安藤輝三氏ともに、統率力があり部下の信望が篤い人物でした。特に安藤大尉は、武装決起に慎重な立場を取っていたにもかかわらず、同志を見殺しにはできないと参加を決心し、決起後は統率力を発揮して徹底抗戦の姿勢を取りました。安藤大尉の部下に襲撃された鈴木貫太郎侍従長官(後の首相)は、安藤大尉について「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に語ったそうです。映画「226」では、安藤大尉を三浦友和が、伊集院少佐を松方弘樹が演じており、伊集院少佐による説得シーンは名場面のひとつに挙げられます。
ちなみに226事件では、加藤馨氏が入隊した甲府の歩兵第49連隊が、鎮圧部隊として東京市(当時)に出動しています。226事件が昭和11年2月に発生し、加藤馨氏が歩兵第49連隊に入隊したのは翌年1月。伊集院大佐と加藤馨氏の間にも浅からぬ縁を感じます。
なお、加藤馨氏は伊集院大佐が歩兵第149連隊の連隊長だったと記憶していましたが、これは事実と違うようです。伊集院兼信氏は、1939年(昭和14年)3月に陸軍歩兵大佐となり、同年12月に歩兵第210連隊長に就任しています。加藤馨氏が暗号班にいたのは、先にも記したように1938(昭和13)年秋から1941(昭和16)年4月までです。
この時期の歩兵第149連隊(第101師団)は、1938(昭和13)年春に徐州作戦に参加、同年7月から10月にかけて南昌の北方廬山の中国軍を攻撃、10月25日に徳安城を落として終結させています。その後、1939(昭和14)年3月には南昌作戦に参加し、作戦開始後10日で南昌を陥落させ、その後南京へと移動しました。
一方、伊集院大佐が連隊長を務める歩兵第210連隊(第32師団)は、1939(昭和14)年12月に編成されてのち、山東省西部の警備業務に従事しています。加藤馨氏が暗号班長を務めていた臨清県は、まさに山東省西部。臨清と南昌では約1000㎞の距離があります。このあたりは、加藤馨氏が偕行社に出した質問状でも、偕行社から「第149連連隊長は津田辰彦大佐であり、伊集院兼信大佐は歩兵第210連隊の連隊長です」と回答されています。加藤馨氏が自身の所属部隊を間違えて記憶していることは考えられません。同時の陸軍の状況はわかりませんが、師団が異なるものの、加藤馨氏は歩兵第149連隊に所属しながら、臨清県で伊集院連隊長のもと暗号班の任についていたのでしょう。腕の立つ暗号解読の人材が豊富ではなかったのかもしれません。
加藤馨氏の戦時中のアルバムを見ていると、伊集院大佐への「最高の人格者」という一文だけでなく、他の人に「部下思いの副官」「全員に忌われている」(原文ママ)「鬼中佐」と添えられている写真もあります。人の命が軽く扱われ、上官の命令は絶対という軍隊生活の中で、加藤馨氏も人間のいろいろな面を見てきたはずです。戦後起業した加藤馨氏が「正しく生きる」という言葉を常に説き続けてきた背景には、極限下での人間の行動を目の当たりにした経験、どのような状況でも「正しさ」を失わない人との出会いなどが含まれているのでしょう。環境が整っていて余裕があるから「正しいことをする」のではなく、どんなに厳しい状況に置かれていても常に「正しいことをする」――この考え方が、戦後ラジオ修理店を開業してから、混売店、量販店へと会社を大きくしていった加藤馨氏の経営思想です。
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