入隊して最初の前線 続き

「甲府聯隊写真集」より、北安の湿地帯の風景のページ

以前、「入隊して最初の戦場」の記事で、加藤馨氏が陸軍に入隊して最初に経験した戦場、昭和12年6月の「カンチャーズ島事件」について紹介しました。「回顧録」に記された文章を再度引用します。

 初年兵としての教育訓練が3ヶ月あり、これが終って全員一等兵という階級になり、ひととおりのことができるようになりました。この年の6月にソ満国境のアムール河の中にある小さな島をソ連軍が占領したとのことで、我が部隊に出動命令が来て、連隊長以下全員出動しました。
 この時の命令が無理だったらしく、部隊は疲労困憊して、現地に着いた頃には、みんな口もきけないように行軍で疲れてしまいました。この日の夜、近くの満人の部落に野営しましたが、夜になって隊長以下全員が死んだようになって寝てしまいました。この夜に私は夜の10時から2時間歩哨として番をしましたが、時間が来ても誰も交代に来ず、私も夜が明けるまで1人で歩哨(寝ないで番をする役)を寝たり起きたりしながら努めました。もしソ聯軍が攻めてきたら我が部隊(約500名)は全滅になるところでした。
 私は今でもこの日の苦しさは死ぬより苦しい1日で人間は疲労困憊したら駄目と悟りましたので、以後軍人生活中この教訓を守りました。この頃満州は春で、野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました。その後ソ連軍が撤退したので我が部隊も元の地に帰りました。

加藤馨氏「回顧録」より 読みやすいように表現等を編集しています

「みんな口もきけない」ほどに「疲労困憊」した行軍。加藤馨氏の別の手記「家系記録」には以下のように記されています。

日本とソ連邦との紛争で黒龍江カンチアース島の戦闘に急派されたが、戦闘に至らず休戦となる。約10日、この間に死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた

加藤馨「家系記録」より

「死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた」という文章は強烈です。戦闘に至らなかったものの、初めての戦場は加藤馨氏に強烈な印象を残しました。その後、加藤馨氏は暗号・通信担当となり、ラバウルで米軍機による攻撃や厳しい食料事情なども経験しています。しかし、最初の戦場はそれらを超えるほどの体験だったのでしょう。その最初の戦場である「カンチャーズ島事件」ですが、上記2つの手記以外に加藤馨氏が言及している資料は現状ではありません。

そのような中、「入隊して最初の戦場」の記事に関心を持たれ、問い合わせをいただいた日ソ紛争史の研究者がおり、その方の論文の参考資料を読んでいたところ、「カンチャーズ島事件」を知る手掛かりとなる資料をみつけ、さっそく古書を入手しました。「戦記 甲府連隊 山梨・神奈川出身将兵の記録」(産経新聞社)、「甲府聯隊写真集」(国書刊行会)の2冊です。研究者の方によると、カンチャーズ島事件に関する資料はあまり残されていないとのこと。加藤馨氏の戦場体験を知る上で非常に参考になる書籍です。

 北満に、ふたたび春がめぐってきた――。四十九連隊が渡満してきてから、ちょうど一年たったのだ。厳しい寒さも遠くシベリアのかなたに去り、雪も消えた。
 北安一帯の大波状地は、雪どけ水が音をたてて流れだした。長い冬からの解放である。
 五月も中旬を過ぎると見渡すかぎり草原に、ことしもまたタンポポの黄色いジュウタンがひろげられた。名も知れぬたくさんの草花もかれんな花をひらき気候も急に暑くなってきた。

書籍「戦記 甲府連隊」 「2.カンチャーズ事件」から

加藤馨氏の回顧録にある「野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました」と重なる描写です。そして昭和12年6月19日、ソ連の国境警備兵が島に上陸し、占拠しているらしいとの報が満州の国境監視隊から入ります。加藤馨氏がいる歩兵第49連隊が所属する第一師団は、同年6月24日から移動を開始。6月末には北安の連隊本部から歩兵第49連隊主力が出動する事態となります。出動命令が出ても、作戦の詳細は一般兵には知らされません。

 「非常呼集演習か――」ややガッカリしながら内田一等兵らも手早く武装をつけて兵舎前に整列した。各人に三八式歩兵銃と実弾百二十発が渡された。前盒後盒に入れると、腰にぐっと重みがかかる。
 「本中隊は尖兵中隊となって、ただいまより目的地に向け出発する――」
 中隊長稲垣正治大尉の号令で夕暮の営門をでて北安駅に着いた。
 すでに黒い貨車が何両も引き込み線にはいっていた。「乗車――」の命令で、どかどかと乗り込むと、そのまま列車は動きはじめた。
 「演習にしてはおかしいぞ――どこにいくのだろう‥‥」兵たちも、すでにふつうの演習ではなさそうだと気がついていたが、討伐なのか、どこへゆくのか見当もつかなかった。

書籍「戦記 甲府連隊」 「2.カンチャーズ事件」から

加藤馨氏が第49連隊のうち、どの中隊に所属していたか分かりませんが、手記からは同日に出動していたものと思われます。それまでは訓練のみで、はじめての前線への出動ですが、加藤馨氏も上記一等兵と同じような心境だったでしょう。

 孫呉についた第七中隊は、三原中佐の指揮下にはいった。
 「ただちに遜河に向け出発――到着次第歩哨線を張り、住民を黒竜江方面へは一歩もだすな――」
 黒河から到着したばかりの三原中佐は稲垣中隊長にテキパキと命令、第七中隊はトラックに分乗して、夜明けの大草原を遜河に向け出発した。
 ひどい道だった。起伏のはげしい荒野原――、湿地帯も多く、トラックは揺れに揺れた。ホロをおろしたなかに詰め込まれた兵隊たちはつかまっているのがやっとだった。(中略)
 ほどなく後続部隊が到着したので、稲垣中隊はただちに黒竜江岸に向かって行軍を開始した。こんどは徒歩行軍である。果てしない波状地を越えて、首までつかるような湿地帯をわたり苦しい行軍だった。落伍者がふえはじめるころ、目の前に黒々と海のような水をたたえた大きな河がみえてきた。
 「アムール河だ‥‥」
 兵たちは思わず叫んだ。
 初年兵にとっては、はじめてみる黒竜江の流れである。無気味なほど静かな流れである。江岸の小さな部落に到着、後命を待つことになった。

書籍「戦記 甲府連隊」 「2.カンチャーズ事件」から

 加藤馨氏の手記だけでは伝わらない臨場感、緊張感が伝わります。急な出発で貨物列車に乗り込み、悪路をトラックの荷台で進み、その後は首までつかりそうな湿地帯での行軍。「落伍者がふえはじめる」ほどの困難な行軍だったことが伝わります。この行軍で加藤馨氏もまた、過去に経験したことがないほど疲労困憊します。

「甲府聯隊写真集」より、北安の湿地帯の風景のページ
北安地域は冬は零下30度であらゆるものが凍り付き、春を過ぎると雪解けにより湿地帯になる厳しい環境。写真は「甲府聯隊写真集」より昭和11年の歩兵49連隊による討匪行の様子

 この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました。
 この日の夜、近くの集落に野営しましたが、隊長以下全員死んだように寝てしまいました。
 この夜、私は夜10時から2時間歩哨(寝ないで番をする役)をしましたが、交代時間になっても誰も来ません。夜が明けるまで一人で寝たり起きたりしながら歩哨を務めましたが、もしソ連軍が攻めてきたら我が部隊(約500名)は全滅になるところでした。

加藤馨氏「回顧録」より

加藤馨氏が「部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました」というの中での、歩哨任務は本当に苦しいものだったでしょう。

その後、出動部隊のうち稲垣大尉以下第七中隊は、占拠されたカンチャーズ島に上陸します。

 敵はいないが、ものすごい蚊とブヨの攻撃が、将兵をおどろかした。歩くと草かげから蚊柱がたつほどのおびただしい大群だ。赤い色をした大きなブヨから、コヌカのような小さな蚊の群れが煙幕のように将兵の周囲を包んだ。
 「ワーッ、これはひどい」こんな声があちこちでする。みなあらかじめ防蚊フクメンを持ってきており、それぞれ顔にかぶってはいるのだが、そのアミの目からさえはいってくる蚊がいるのだ。 

書籍「戦記 甲府連隊」 「2.カンチャーズ事件」から

その後上陸した部隊は、侵入したソ連艇と戦闘となり、一隻撃沈します。しかし、加藤馨氏はこの戦闘でソ連艇を一隻撃沈したことを知らず(偕行社に送った質問状)、加藤馨氏は上陸部隊にはいなかったようです。もちろん、上陸部隊での戦闘を経験しなかったからといって、任務が楽だったわけではありません。任務も分からないまま命令に従って動かなくてはならず、極度の疲労困憊、さらには厳しい自然環境。だからこそ、「死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた」と回想しているのでしょう。

「甲府聯隊写真集」より、カンチャーズ事件のページ
これまでの対ゲリラ戦と異なり、大国ソ連との一触即発の事態となった「カンチャーズ島事件」。出動の様子が「甲府聯隊写真集」に掲載されている。左上写真に「監視の哨兵には一瞬の油断も許されぬ」との説明があるが部隊到着当日の状況は違ったようだ

加藤馨氏が入隊し、北安に赴任したのは昭和12年2月。その翌月3月には、歩兵第49連隊の町田等第6中隊長が、部下20人と共に現地でゲリラに襲撃され全滅します。歩兵第49連隊は、山梨、神奈川出身者で構成されており、町田隊玉砕の報は出身町村に衝撃を与えました。「嗚呼町田隊」という芝居が各地で上演され、全国からの寄付により1年後には甲府に町田少佐の銅像がたてられたほどです。歩兵第49連隊に所属し、初めて前線に赴任した加藤馨氏にとって、死は身近なものだったのでしょう。その後3か月の教育訓練を経て一等兵になった加藤馨氏は、その1か月後にカンチャーズ島事件を経験したのです。

愛国心に燃えて志願したわけではなく、父の急死により進学をあきらめ、実家の農業を手伝うしかなかった中で、職業として軍人を選んだ加藤馨氏。その加藤馨氏にとって、カンチャーズ島事件の経験は、イデオロギー云々ではなく、戦争という非日常の理不尽さや狂気を身をもって知る体験となったのではないでしょうか。

カンチャーズ島事件から約1か月後、加藤馨氏は下士官を養成する教導学校の学生応募に志願し合格。同年9月下旬に豊橋陸軍教導学校入学のため北安を離れます。歩兵第49連隊は、その後もソ連・満州国境の警備を続け、黒河省神武屯に移駐。昭和14年にはノモンハン事件での戦闘に加わります。昭和19年以降、グアムやレイテといった南方戦線に投入され、多くの将兵が玉砕しました、

20歳でカンチャーズ島事件を体験した加藤馨氏。「10日間、死にかかる苦闘をして人間は苦闘すると死を恐れなくなるものだと感じた」――加藤馨氏のこの言葉は、置かれた環境において人間の精神がいかに変化するか、死を恐れなくなることの怖さを物語っています。

加藤馨氏は、ケーズデンキの創業者としてビジネスを成功させます。「人を大切にする経営」「お客様のための本当の親切」といった経営哲学、創業精神を学ぶことも大切ですが、加藤馨氏の「戦争は悲惨です。決して起こしてはならない」という強い思いもしっかり受け継いでほしいと思います。

研究所長 川添 聡志

株式会社流通ビジネス研究所 所長 雑誌および書籍の編集者として出版業界に携わる。家電量販店向け業界誌『月刊IT&家電ビジネス』編集長を務めた後、家電量販企業に転職。営業企画やWebを含めた販促などを担当し、その後流通コンサルタントとして独立。ケーズデンキ創業者・加藤馨氏および経営を引き継いだ加藤修一氏の「創業精神」を後世に伝えるため、株式会社加藤馨経営研究所の設立に携わり研究所所長に就任。その後、ケーズデンキに限定せず、幅広く流通市場を調査研究するため、2022年1月からコンサルティング会社「株式会社流通ビジネス研究所」を設立し、同年4月より活動拠点を新会社に移行

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