※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。
加藤馨経営研究所では、ケーズデンキ以外の家電流通企業に関する書籍も収集しています。事務所では、現在以下のような書籍を所有しています。
- 蓮の花は泥水にしか咲かない 久保道正 ※デオデオ(現エディオン)創業者の自伝
- ラオックス70年史 1930-2000
- 未来への絆 マツヤデンキ三〇年
- ヤマダ電機の礎
ラオックスやマツヤデンキは、かつては業界の顔ともいえる存在でした。NEBA(日本電気大型店協会)は2005年に消滅しましたが、その初代会長はラオックス創業者の谷口正治氏、二代目会長はマツヤデンキ創業家の平井進吾氏が務めました。
家電流通の歴史を同業他社、あるいは地域電気店などの視点から見て、比較研究することで、加藤馨氏の経営手法は何が違ったのかを浮き彫りにすることができます。また、加藤馨氏が実施された様々な施策なども、当時の業界の流れに沿ったものだったのか、あるいは独自性があったのかが明らかになります。
各地に量販店が誕生し、「全日本電器大型店経営研究会」(通称、全日電)が設立されたのが1963年。全日電は全国8地区にブロック組織を持ち、関東エリアの「東日電」にケーズデンキ(当時は加藤電機商会)も1968年に加盟します。ちなみに、加藤修一氏が加藤電機商会に入社したのはその翌年1969年です。加藤修一氏は、入社前からメーカーや東日電が開催する会合や勉強会に加藤馨氏の代理として参加していたそうです。そのような場で学んだ知識は、当時の加藤修一氏のメモを見ても膨大な量です。そして、その知識に裏打ちされた経験が、がんばらない経営へと昇華されていくのです。さらには、若くして先輩経営者や二世経営者たちと付き合ってきたことも大きな財産となっています。
第一産業事件:デオデオ創業者 久保道正氏の回想
戦後の復興の中で急速に拡大する家電市場は、1955年から60年にかけての5年間で家電製品総生産額が384億円から3727億円とほぼ10倍という驚異的な成長を遂げます(日刊電気通信社『風雲家電流通史』)。急速に市場が拡大したこの時期、家電流通業界は大きな変革の波が訪れました。家電メーカーは、自社の販路を確保するために1950年代後半に系列店を組織します。また、自社製品の販売を強化するために、卸業者や一部の販売店に対しリベートを供与するようになったのもこの時期です。その後いろいろな経緯を経ますが、家電市場において専門店チャネルが圧倒的なシェアを持つようになったのは、この時期に一因があると思われます。
この当時の代表的な事件が1957年の「第一産業事件」です。第一産業は後にダイイチ、デオデオと名称を変え、現在はエディオンとなっています。当時急速に普及が進み始めた家電(白黒テレビや電気洗濯機など)は飛ぶように売れていました。そのような中で、第一産業が1956年1月の広島テレビ開局記念として大売出しを実施。メーカー指示小売価格を下回る価格で販売します。これに対し、広島市ラジオ電器商業組合がメーカーに商品の出荷停止を行わせる目的で、組合員に使い物にならない死蔵在庫を一斉にメーカーに返品させる抗議行動を行わせます。著書「蓮の花は泥水にしか咲かない」で久保道正氏は以下のように振り返っています。
忘れもしませんが、その年の四月八日、お濠近くの白島会館に数百名の広島の電気屋さんが集まり、居並ぶメーカー十八社の代表に対して「第一産業に対する出荷を停止せよ」といって迫りました。
久保道正著「蓮の花は泥水にしか咲かない」(ミリオン書房)
全ラ連の東京本部からも応援にきているので、電気屋さんたちは鼻息が荒い。メーカー側がなんとかとりなそうとしても、
「第一産業を煮やしあげたる(痛めつける)んじゃけえ、かばちたれるな(文句いうな)」とそれはすごい剣幕です。メーカーは電気屋さんたちに圧倒されました。
当時はいまとちがって、メーカーが輸出に頼る部分はほんのわずかで、国内需要を大幅に伸ばすために、小売店をナショナル系列とか東芝系列とかいったぐあいに系列化して地歩を固めようとしていた時代ですから、小売店から集団で迫られるとメーカーも弱かったのです。メーカー側はついに出荷停止の要求を吞みました。
しかし、私のほうはたかをくくっていました。商品は溢れるほどあるのだから、出荷停止なんて口でいうだけで、実際にできるはずはないと思っていたのです。
ところが、ほんとうに品物が入らなくなってしまいました。どのメーカーもわが社に対する出荷をぴたっと止めてしまったのです。
メーカーの指示小売価格があった時代です。売れる家電で価格が維持されていれば儲けも大きくなります。そのような「おいしい」環境を乱す裏切り者を、全ラ連(全国ラジオテレビ電機組合連合会)が吊るしあげたわけです。その理不尽さを理解するメーカーがこっそり商品を回そうとしても、遠い場所の問屋から仕入れても、全ラ連がすぐに突き止め圧力をかけます。結局、第一産業は約2か月間閉店を余儀なくされました。たがて、この騒ぎはマスコミにも取り上げられ、「低物価主義の第一産業」「メーカーの独禁法違反」といった論調の記事が出るようになります。
そのような中、商工会議所から声がかかります。市場安定協議会のメーカー代表者、そして全ラ連広島支部の代表者との話し合いの場が持たれます。
「久保さんよ、全ラ連に入りなさいよ。こんな問題は簡単に片づくんじゃから。組合に入りさえすりゃあ、品物はすぐ入るよ」といいます。品物が入荷せずに苦しんでいた私は、思わず「はい」といいかけてしまいました。
同上
どの電気屋さんにも品物がないというならがまんも、できますが市場には溢れるように商品があるのにうちの店にだけないのですから、本当に苦しかったのです。専務理事の言葉が天の救いのように聞こえて、「はい」という返事が喉のところまで出かかったのですが、それをかろうじて呑み込んで、「よく考えてみます」といって、やっとの思いで会議所を出ました。正直いって、そのときはそれが精いっぱいだったのです。
人間というのは弱い生き物だなと、久保氏はつくづく思います。組合に入れば、良い商品を安く提供するという商売ができなくなるとわかっていても、苦しい状況では藁をもつかもうとしてします。しかし、しがみついたが最後、ずぶずぶと沈んでしまう。わかっていても誘惑に負けそうになってしまうのです。人間の心の弱さをかみしめながら、会社に帰ると社員に向けて以下のように話しかけます。
「組合に入ればすぐ品物が入るといわれて、思わずイエスといいそうになってしまった。危うくその言葉を呑み込んで戻ってきたが、もう少しで君たちを裏切るところだった。ほんとうにすまなかったと思っている。皆と誓いあったとおり、これからもまだまだがんばるから、頼むぞ」と社員たちに率直に謝まり、自分の気持ちを引きしめ直したのでした。
同上
やがて報道が過熱し、騒ぎが注目されるようになると公正取引員会が動き出します。聴取に応じると、第一産業の販売方法に問題はないという見解になり、「第一産業に対する出荷停止を解除せよ」との勧告が出されます。すると、各メーカーが待ってましたとばかりに品物を出荷してきて、商売が一気に軌道に乗ります。久保氏はこの事件を以下のように振り返っています。
出荷停止を受けたのはたしかに苦しいことではありましたが、自分が苦しいときには相手はもっと苦しい、という教訓を得たことは大きかったと思います。これは後でわかったことですが、私が品物が入らなくて困っているとき、相手の電気屋さんたちは、品物はどんどん入るが誰も買ってくれない、という状況におかれていたのだそうです。
同上
「第一産業は一所懸命安く売ろうとしているのに、お前らは高く売ろうとして騒いでおるのか」といって、お客さまから責められていたわけで、そのほうが私などよりもっと苦しかったといいます。苦しいときはお互い苦しいわけですが、紙一重のところでがまんしたほうが勝つのだということを、骨身にしみて痛感させられた次第です。」
第一産業のこの事件は、その後量販店が家電市場で確固たる地位を築いていくようになっていく上でのターニングポイントとなった出来事のひとつです。そして、急速な戦後復興の中で大きく変化する流通業界を勝ち抜き、ビジネスを拡大してきた創業者には、さまざまなドラマがあります。「こうしたほうが得」「このほうが効率がいい」「数字が良くなる」といった経営理論とは別次元の、商売に対する強い思い、強い意志があります。そしてまだ会社組織の規模が小さかった分、社員との熱のこもったコミュニケーションがあります。このような創業者の精神や歴史は、やはり大切に社員が語り継いでいくべきものでしょう。第一産業は、後にダイイチ、デオデオと名を変え、その後エイデンやミドリ電化と合併し、エディオンとなります。このように合従連衡が行われると、創業の歴史も、創業者の精神もリセットされてしまわないかと心配になります。
家電量販企業、あるいは電気店組合などの資料を集めたり目を通したりしていると、かつて名を馳せた有名企業でも、その創業者の言葉や歴史がほとんど残っていない企業が少なくないことに気づかされます。これは業界にとって大きな損失と言えるでしょう。今家電販売にかかわっている若い世代も、歴史から学べることは決して少なくないはずです。当研究所は加藤馨氏の創業精神を伝えることを使命としていますが、ケーズデンキの歴史だけでなく、家電流通の歴史全体をとらえ、かつて業界発展に貢献した人々の取り組みやドラマを少しでも多く残していければと考えています。
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