※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。
当研究所はケーズデンキの創業精神を研究し伝えることを使命としていますが、だからといってケーズデンキ以外の流通はどうでもいいというわけではありません。加藤馨氏や加藤修一氏が会社を大きく育てた時期に、同業他社でどのような動きがあり、どのような考え方の経営者がいたのか、調べることも、ケーズデンキ創業精神を研究するうえで不可欠なことです。今回は、研究所で収集している書籍の中から、「愛 浄弘博光50年の生涯 そのまごころと信念」に掲載されている上新電機・創業者の言葉を紹介したいと思います。
上新電機の実質創業者と言えるのが浄弘博光(じょうぐ・ひろみつ)氏。1935(昭和10)年に生れ、1950(昭和25)年に中学卒業と同時に、父が始めた上新電機産業株会社に入社。創業20周年となる1968(昭和43)年に代表取締役に就任しました。浄弘氏は幼少の頃、成績優秀な子だったが、戦時中でもあり空襲のある大阪を避け福知山市に疎開。終戦後大阪に戻ると、家業を手伝いながら学校に通ったといいいます。高校、大学と進む人も増える中、「家のために、学校に行かずに仕事を手伝ってほしい」と母に請われ、大声で泣いたものの、進学したい思いを断ち切り、中学2年の1学期を最後に学校に行かなかったそうです。思いを断ち切ってからは、極度の近眼になるほど、休む間もなく仕事に徹底的に取り組みました。
しかし、会社を軌道に乗せていくと、やがて正規の学業を修めていないハンデを感じるようになります。浄弘氏は、簿記を身につけたい、漢字も書けないようではこれからの時代を乗り切れないと感じ、最終的に、今までどおりに商売に打ち込みながら、それに加えて、英語や簿記、国語、習字などを何食わぬ顔で独学で勉強しようと心に決めます。言葉にすると「そうなのか」程度にしか感じないかもしれませんが、過労により慢性化した腎臓病を患うほどの大変な努力でした。
東日電やNEBAといった業界団体で、研究会や講演、研修などに参加し、いろいろな経営者と交流があった加藤修一氏は、もちろん浄弘氏とも面識があります。「学校は出ていなかったけど経営者としてすごい人だった。この時代の人は、机上で勉強したり考えたりするだけでなく、実践経験を積み重ねていたからね」と振り返ります。研究所には1977(昭和52)年のNEBA主催「米国小売業マネジメント視察」のパンフレットがあります。13日間かけて米国各地を回り、流通店舗を視察する研修旅行ですが、参加者リストの一番上に名前があるのが浄弘博光氏です。ちなみに加藤修一氏はリストの下のほうで宿泊でも二人部屋をあてがわれています。
色あせない浄弘氏の言葉
頭脳明晰でありながら家庭の事情で学校に行けず、自ら働きながら学び、努力して会社を大きくした浄弘氏の人生は、時代こそ多少ずれていますが、ケーズデンキ・創業者の加藤馨氏と重なる部分もあります。戦中、終戦直後という厳しい時代を必死に生き、ラジオ修理を起点に、「信頼」される商売をしながら、市場の変化をとらえ、家電販売、そして量販業態へと商売を進化させていきました。そんな浄弘氏の残した言葉をいくつか紹介しましょう。
企業の倒産は非常に罪悪だ。100円の金を盗んでも犯罪であるのに、社員や家族を路頭に迷わし、取引先や消費者に莫大な損害と迷惑をかける倒産が、罪にならんというのは矛盾の最たるものだ。(昭和49年 石油危機の時)
上新電機 発行・編集「愛 浄弘博光50年の生涯 そのまごころと信念」(非売品)より ※以下引用も出典同じ
企業は社員、取引先、お客様の生活を支える社会インフラとしての自覚が必要です。だからこそ、
自己の企業が発展しようと思えば、必ず相手にもプラス(利益)を与えなければならない。相手に損をさせて得る利益というのは、一回限りで終わってしまうものである。( 昭和50年「私の経営」)
商売とは物を作る人、我々のように物を売る人、そしてその商品を使う人、つまり、メーカー・販売店・消費者の三者に利益があってこそ社会の繁栄に役立つと考えています。(昭和53年 30周年記念式典にて)
自社だけなく、取引先やお客様が利益(利便性)を享受し、社会を豊かにすることが大切と浄弘氏は語ります。社会の繁栄につながる企業だからこそ支持され、継続的な成長が可能になるのです。自社の利益だけ考えるような企業は、取引先に迷惑をかけ、倒産して社会全体に迷惑をかけます。経営者としてそのことを忘れてはいけません。
一方で、安定的、継続的成長を果たすためには、時代の変化、環境変化に対応することも大切です。
だいたい発想の転換というと、今までになかった全く新しいことを考えなければならないと思いがちになるものであるが、私はそういうことでもあるまいと思う。仮に画期的なアイデアを着想したとしても、過去に実例や類似品がない場合では成功率や効果、それにリスクの程度ははかりにくい。また、画期的なアイデアなど、そう簡単に浮かぶものではない。むしろ「昔の経営はどうだったのか」いう見方、考え方も必要ではないかと思うのである。経営の基本というものは、どのような時代であっても不変のものである。時代の流れ、時代の変化に対応して戦術が多少変わるに過ぎない。(昭和50年「私の経営」)
商売にはタイミングが非常に重要であります。余り早くても失敗いたします。遅れますとうま味が少なくなります。「人より少し早く」が成功の秘訣と思います。(昭和58年 講演)
単に他社がやるから当社もやるでは、厳しい業界情勢の中では勝ち抜くことは出来ない。しかし、他社は他社、当社は当社という考えも危険であり、自らの体力・状況をみて”行き過ぎず、出遅れず”の戦略が重要である。(昭和56年 業界再編成に際して)
経営は自己のペースを守るべきである。しかし、自己のペースを守ることは非常にガマンのいることだ。他人が走ればどうしてもあせりが生じてくる。しかしそこが大切だ。ガマンこそ経営者の条件ではないかと思う。
企業は激しく変化する社会の中でも永遠に発展し続けなければならず、過去の実績の上にあぐらをかいていたのでは、敗北者となることは火を見るよりも明らかである。
かつて業界団体で優れた経営者として講演していた企業トップは何人もいますが、その後あっという間に会社が倒産したり、他社に吸収されたりすることが珍しくありませんでした。当時「優れた」と言われていた経営者ほど、他社に先行しようとする意欲が強かったように思います。上の発言は、中学生の頃から会社にかかわり、苦労しながら会社を大きくしてきた浄弘氏ならではの発言と言えるでしょう。目先の収益拡大や話題性、名誉などに流されず、会社をいかに永続させるかという長い視点で、変化対応を図ることを重視します。
私の経営方針として、一応5年先を見通し3年計画で手を打っています。私どもの洞察力ではとてもそんな先は読めないが、せめて見えない目に望遠鏡をあてて5年先を見通し手を打っているわけです。(昭和56年 日日経済新春号)
遠い先は見えなくても、見えない目に望遠鏡をあてて5年先を見通す——至言です。とはいえ、時には経済環境の変化で、予期できない不況なども訪れます。
人間というものは実がなるとすぐ取りたくなるものである。実の小さい青い間に先を争ってもぎとってしまうと、結局熟してもいなく、分け合っても小さいものとなる。しかし、少し我慢をすれば実は更に大きくなり、しかも味のよいものを分かち合える。収益の上がりにくい不況の時は、経営者も社員もお互いに我慢をして、大事に実を育てて、実が大きくなった時に分かち合うことが必要である。(昭和50年「私の経営」)
この発言を読むと、加藤修一氏が社員持ち株制度やストックオプション制度について、社員に向けてよく語っていた言葉を思い出します。株価が少し上がったからと、すぐ持株を売って現金化(家や車を買うために)することを、「種芋が大きくなる前に食べてしまうから、大きな収穫を得られないし、次に植える種芋もなくなる」とたとえ、我慢することが資産形成につながるのだと説いてました。経営も同じく、我慢した方が大きな成果につながることもあると浄弘氏は語っています。
時代が変わっても、市場環境が変わっても、ここで紹介した浄弘氏の発言は決して色あせていません。加藤馨氏の言葉、加藤修一氏の言葉に重なる部分もあり、家電流通における普遍的な真理、あるいは経営の極意と言えるものでしょう。上新電機はその後、お家騒動で優秀な幹部・社員がやめ、その後倒産の危機に陥りました。そのような中、トップに立った土井栄次氏は管理畑出身でありながら、社員に「会社を立て直すために1年我慢してほしい」と社員に語り掛け、浄弘氏の創業精神に今一度立ち返ろうと訴えました。阪神タイガースの優勝などの追い風もありましたが、多くの関西量販企業が消える中、上新電機はしっかり生き残り、経営体質を強化してきました。1985(昭和60)年に50才という若さで病に倒れた浄弘氏ですが、その創業精神や言葉が、会社の危機を救ったといえるのではないでしょうか。
番外編:浄弘氏の接客に対する考え方
さて、浄弘氏の経営思想を紹介しましたが、最後にちょっと「接客」にまつわる面白いなと思った発言を紹介しましょう。現在、販売現場でがんばっている人にとっても、役に立つ、心の持ち方を変えることができる言葉だと思います。
先日あるグループの方々と「お客様は神様ですか?」という問題を話しあったのですが、私は「お客様は子供である」と申しました。お客様が神様ならば、理屈に合わないことを言ったり、無理を言ってダダをこねたりすることはありません。ですからお客様に理屈で勝っても仕方がないわけで、私はいつも負けるが勝ちだと言っています。理屈に負けても、買っていただければ結局勝ったことになるのではないでしょうか。(昭和48年 音響メーカー研究所での講演)
世の中、悪人も善人もいる。しかし、悪人の数に比べたら善人の方がはるかに多い。善人が多いのに、一部の悪人のために善人のお客さんに奉仕することを怠ったら、商売として間違っているのではないか。(昭和56年 対談にて)
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