馨氏の戦争体験

ラバウル島にいた時の加藤馨氏

※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。

ケーズデンキの前身は、カトーデンキ、さらにさかのぼれば「有限会社加藤電機商会」です。昭和22(1947)年に水戸市元台町で加藤馨氏がラジオ修理店を開業し、昭和26(1951)年7月1日から今の柳町事務所がある場所、当時の根積町562-4に移転オープンしてから業績が拡大し、昭和30(1955)年10月1日に有限会社を設立しました。

終戦時、職業軍人の将校(陸軍中尉)だった加藤馨氏は、昭和20年9月12日に軍が解体され1000円の退職手当を受け取って復員します。

 毎日猛烈なインフレが起こり、人々はお金では物を売らず、もっぱら生活必需物品と物々交換で生活した。復員する時、私のいた部隊には18名の将校がいたが米軍の命令で将来死刑になるかもしれないと、その時の用意に軍医から青酸カリを一包づつ貰って胸のポケットに非常の場合の自殺用に持っていた。

 戦後、米軍司令官のマッカーサーの日本統治は日本軍が想像していたよりおとなしく、戦争犯罪人以外は刑罰を受けないことになり、3年後に畑を深く掘ってこの青酸カリをバラバラにして埋めてしまった。それから軍隊に関する書類や友人、知人の名簿は全部一日係って焼却した。この結果、豊岡の航空士官学校の同期生の分はわかるが、他の部隊の人々の名簿は今もなく連絡が取れない。

加藤馨氏が1993年5月9日に書いた「家系記録」より

復員した馨氏は、戦後まもなく設立された職業安定所に通います。しかし、ある日、職業安定所の所長から「旧職業軍人の将校には職業を紹介しないように占領軍(当時はGHQ)から指令が出ている。そのことをここに張り出して(告知して)はいないが、こういう理由なのであなたに職業の紹介はできない」と言われます。そこで、通信機器の知識を生かし自らラジオ修理店を開業します。このお店は後に有限会社加藤電機商会となり、カトーデンキ、さらには後のケーズデンキとなります。

1995年の馨氏の発言

馨氏が「正しく生きる」ことを強く意識された背景には強烈な戦争体験があります。通信士官だったため、最前線で戦ったことは決して多くありませんが、初年兵の時にはソ連と満州の国境に出動しています(1937年6月の乾岔子島(カンチャーズ)事件)。ニューギニアに無線機を運搬、建設する任務では、B29攻撃機の爆撃を受けています。また、軍隊という組織がいかに人を人として扱っていない場面や、ありえないような指示で戦友が死んでいく場面を目の当たりにします。特に通信班に所属していた馨氏は、前線から送られてくる通信から戦況の悪化を把握していました。しかし、これは機密情報でありとても口外できるものではありません。日々戦況は悪化するにもかかわらず、軍部統制下の日本では、勇ましい報道ばかりが流れていました。そのような戦争体験が、馨氏の「正しく生きる」という信念につながっているのではないでしょうか。

戦後50年経って編纂された「490人の軍・戦歴譜 陸軍士官学校・陸軍航空士官学校少尉候補者第24期生」という冊子があります。ここに士官学校にいた人たちが掲載されており、配属部隊や参加した作戦名、終戦時の地名などに加えて、所信や近況報告を行う自由文が添えられています。水戸で終戦を迎えた馨氏も掲載されていますが、馨氏が寄せた文章は、その内容が他の士官学校出身者と温度が異なり、読むものをハッとさせます。

戦前の事は人に知られたくないことが多いと思いますので余り詳細な事を記載しない方が良いと思います。我々は軍国主義の教育を受けた人間で,今の民主主義の時代に育った人には軍国主義の悲惨な世の中を理解することは出来ないと思いますから,我々は残念乍(なが)ら悪い時代に生れたものです。昔から時はすべてを解決すると言われますから。

全国錦会世話人編「490人の軍・戦歴譜 陸軍士官学校・陸軍航空士官学校少尉候補者第24期生」より
1995年に発行された「490人の軍・戦歴譜 陸軍士官学校・陸軍航空士官学校少尉候補者第24期生」

多くの人が、戦後50周年を迎えた日本の現状を憂いたり、あるいは軍人としての誇りをもって生きていることを記したりする中、馨氏は冷静に現実を見据えています。この文章は特筆すべきものです。

親友との再会

先に引用した1993(平成5)年に馨氏が書いた「家系記録」の文章に「軍隊に関する書類や友人、知人の名簿は全部一日係って焼却した。この結果、豊岡の航空士官学校の同期生の分はわかるが、他の部隊の人々の名簿は今もなく連絡が取れない」とあります。馨氏が中国北部(山東省臨清県)に着任していた当時の親友に原栄治氏がいました。中郡大野村(現在の平塚市)在住でしたが、戦後馨氏はずっと消息を探し続けました。相模原市役所に何度も生死を問い合わせるも不明。そのような中、馨氏の次兄(実氏)が住所を探し出します。原氏に再会できたのは2004年(平成16)5月のこと。馨氏が平塚市の原氏を訪ねた日に持参し、見ていたと思われる平塚市の地図は、今も事務所に残されています。原さん宅までの道がボールペンと蛍光ペンで地図に印されています。

また、馨氏の軍隊時代のアルバムには、原氏の写真とともに「平成16年5月に訪問 再会できて歓び合った。1年前から脳梗塞で片足が不自由でしたが元気は良かった」と、後に記入した文章が添えられています。終戦から約50年を経ての再会。その喜びが伝わってきます。事務所の資料を整理している中で、この平塚市の地図の書き込みを見つけ、その後アルバムの記述や日記の記述に触れた時、筆者も深い感動を覚えました。

アルバムに残されていた中国北部に派遣された当時の親友の写真
左の写真が中国北部に派遣された当時の親友、原栄治氏。写真下に再会の経緯が記されている

同年2004年10月14日に馨氏は訃報を受け取ります。この日の日記には「平塚の原栄治君が9月30日死亡したと家族から手紙が来た。淋しい日だ。」と記されています。2日後の10月16日。日記には、「寒むいと感ずる朝だ。平塚の原君が亡くなって通知が14日来たので、ご仏前(メロン2個入)を買って手紙をそへて贈った。同期生原君との今まで、特に戦場での事、戦後探した事等を書いて遺族の方に知らせて私の任務は終わったと思う。」と書かれています。人生の最後に間に合い、再会できたことは二人にとって幸福なことだったでしょう。原氏との思い出をつづり、ご遺族に伝えたことで「私の任務は終ったと思う」という一文にはさまざまな思いが込められています。

戦争という「非日常で」「不道理な」時代を経験した馨氏ですが、かつての同窓生や旧友との交流は長く続きました。90歳を過ぎてからもかつての陸軍航空士官学校時代の同期生と連絡を取り合っています。上の命令は絶対、正しい戦況把握に基づかない理不尽な指令、そういった状況下では人間の本性が現れます。様々な上官の中にも「部下思いの副官」「軍人として勤務した期間で最高の人格者」といった人にも出会います。戦争という極限下で、「人が人らしく生きる」「本当の思いやり」といったことを強く感じたのかも知れません。馨氏が創業し、会社が大きくなってからも「誠実であること」「正しく生きること」を変わらず重視し続けてきたことは、体験に基づく強い信念でしょう。

今回は、馨氏の戦争体験について触れましたが、以前も紹介したケーズデンキの「我が社の信条」にある「感謝の気持ちで働きましょう」「健康で楽しく働きましょう」「親切と愛情を以って働きましょう」という文章には、馨氏の戦争体験が反映されているように思えます。このような馨氏の思いは、戦争を身近な話として聞いたことがない世代には、文章だけではなかなか理解できないものです。引き継ごうという思い、知ろうとする努力がなければ、言葉は形骸化してしまいます。形骸化すれば、いくら同じ言葉を皆で声に出し続けても、会社の魂とも言える創業精神は失われます。

本サイトでは馨氏の戦争体験について今後も取り上げていく予定です。また、立石泰則氏の著書「戦争体験と経験者」(岩波新書)も、加藤馨氏の戦争体験を取り上げている貴重な書籍です。でぜひ読んでいただきたいと思います。

ラバウル島にいた時の加藤馨氏
矢印が示しているのが加藤馨氏。「ラバウル島、毎日のように夜は米軍機(B29)の爆撃があった」と記されています (※B29とあるが、実際は違う爆撃機)

研究所長 川添 聡志

株式会社流通ビジネス研究所 所長 雑誌および書籍の編集者として出版業界に携わる。家電量販店向け業界誌『月刊IT&家電ビジネス』編集長を務めた後、家電量販企業に転職。営業企画やWebを含めた販促などを担当し、その後流通コンサルタントとして独立。ケーズデンキ創業者・加藤馨氏および経営を引き継いだ加藤修一氏の「創業精神」を後世に伝えるため、株式会社加藤馨経営研究所の設立に携わり研究所所長に就任。その後、ケーズデンキに限定せず、幅広く流通市場を調査研究するため、2022年1月からコンサルティング会社「株式会社流通ビジネス研究所」を設立し、同年4月より活動拠点を新会社に移行

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