※本記事は「株式会社加藤馨経営研究所」サイトにて執筆・公開した記事です。
1987(昭和62)年5月に、ケーズデンキ(当時はカトーデンキ)は栃木県宇都宮市に初の県外出店を果たします。前年にコジマがケーズデンキの本拠地である水戸市に出店したことに対抗するためでした。当時の年商はようやく100億円に届こうかという状況で、野心的に県外進出を図る意図はまだありませんでした。ケーズデンキはNEBA(日本電気専門大型店協会)に加盟していましたが、NEBA加盟企業は局地的に戦うことはあってもエリア的にある程度すみわけができていました(とはいえ、各社の出店エリアは拡大していくので、やがてはすみわけも難しくなったでしょう)。そのような時に、NEBAに加盟せず、はじめから全国展開を目指して出店攻勢をかけたのがコジマです。
加藤修一氏は著書で以下のように当時を振り返っています。
ケーズデンキはそれまで、茨城県内に二〇店舗ほど展開していましたが、県外に出て行ったのは、お隣栃木県のコジマさんが水戸に出店してきた翌年の一九八七年、コジマさんへの対抗上、宇都宮に出店したのが初めてだったのです。
加藤修一著「すべては社員のために『がんばらない経営』」 (かんき出版)第3章「会社は脱皮してこそ成長する」より
それまでにコジマさんは、茨城県に出店していましたが、売上高が三倍以上ある競争相手に目の前で派手なことをされると、やはり動かざるを得ません。
全国展開をめざしたコジマさんは、新店をオープンすると開店記念と称してカラーテレビを五円で売るという荒業で攻めてきましたから、これはもうおとなしくしてたら潰れるだけです。
コジマさんはさらに群馬県のヤマダさんにも戦いを仕掛け、ヤマダさんは一円セールで応戦するといった具合ですから、バブル景気の一九八〇年代末期から家電の流通市場は、北関東から大きくうねり始めたのです。
(中略)
逆説的ですが、ケーズデンキはコジマさんとの戦いで、低価格路線での戦い方を覚えたと言えます。
現在、家電品はほとんどがオープン価格制ですが、当時はまだ定価があった時代で、NEBA加盟の量販店は全国的に一割引が普通で、利益は二五%前後でした。その加盟店の何人かに、
「ヤマダさんやコジマさん相手に、仕入れ価格をもとに売価を決めるというやり方では勝てません。相手の売価を見て自社の売価を決めるようにしなければいけません」
と忠告したことがあります。
しかし、彼らは実際にその安売りの洗礼を受けていませんから、なかなか理解してもらえませんでした。
じつはケーズデンキも戦いだと考えていましたから、一九九〇年代半ばに一円セールを実施しました。こういう関東の三社が過当競争をしたことで、事態を重く見た公正取引委員会が、やめるようにという指示を出しました。
安売りするのは大賛成ですが、原価無視などという乱暴なことをやってはいけません。
家電流通史における大きな転換点となった「北関東YKK戦争」です。YKKというのは、もちろんヤマダ、コジマ、カトーデンキの頭文字から。この当時の「五円セール」「一円セール」の応酬はまさに常軌を逸した戦いと言えるでしょう。当時のチラシのコピーが茨城県電機商工組合「昭和60年度 第28回通常総代会資料」の中に残されていました。
茨城県電機商工組合は、このチラシを問題視します。全国家庭電気製品公正協議会茨城県支部長から、公正取引委員会と茨城県知事あてに「過大景品の提供に該当する行為」として調査を求める申告書を提出した旨、総代会資料には掲載されています。
翌年の茨城県電機商工組合「昭和61年度 第29回通常総代会資料」を見ると、公正取引委員会から小島電機(コジマ)代表取締役小島勝平氏に対し、法律上の措置は出されなかったものの、警告が出されたことがわかります。
ちなみに茨城県電機商工組合「昭和61年度 第29回通常総代会資料」には、取引公正部の事業実施報告の主な事例として、以下のような記述も見られます。
②昭和61年9月19日(金)~23(火) コジマ勝田店配布の不法チラシ広告(555円セール)同カトーデンキ東海店配布の不法チラシ(770円セール)に対し同年10月8日茨城県知事並に公正取引委員会に申告するとともに昭和62年1月23日コジマ土浦店開店セール(555円)を兼ねて知事および公正取引委員会に提訴。
茨城県電機商工組合「昭和61年度 第29回通常総代会資料」
「五円セール」ではありませんが、コジマの「555円セール」に対抗してカトーデンキも「770円セール」を実施しているなど熾烈な戦いがうかがい知れます。この時期について、「風雲家電流通史」(日刊電気通信社)では、「北関東家電戦争と位置づけられている、いわゆるYKKの三つ巴の戦いは、コジマがカトーデンキの本丸・水戸に出店した日から始まることになる」と記されています。
この時期の電機商工組合の資料には、「全国電商連は(中略)全国組織を挙げて努力を続けているが、一部を除いてディスカウント、スーパー、ホームセンター等は全く協力が得られず、自由競争の美名のもと弱肉強食は当然と、規約の趣旨理解と協力には日時を要する現況で全く遺憾に堪えません」「公正競争規約も多くの違反指摘、要望協力を行ない稍やくその成果が挙がりつゝあった矢先年末商戦頃から施行以前に倍して不法チラシが横溢し遂いに、日替り五円販売セールとエスカレート、無法安値販売チラシに対しては、法治国家の国民として又公的法人として組織の総力を挙げて斗い市場正常化の為め努力する」「自由競争下大資本、大型店化に拍車がかかり、地域進出は激増したために弱小小売店は極度に経営を圧迫され、数多くの組合員店は生き残り作戦に汲々としているのが実態ではなかろうか」など、厳しい表現が多く見られます。
北関東YKK戦争に巻き込まれた地域電気店にとってはまさに死活問題だったでしょう。しかし、従来通りの儲かる売価を維持するべく、市場競争を抑制する活動はなかなか消費者の理解を得られません。以前紹介した現エディオンの「広島第一産業事件」で低価格で販売した第一産業に対し、メーカーに出荷停止の圧力をかけた全ラ連と同様です。
加藤修一氏が先の引用で語っているように、原価無視の乱暴な売り方はいけませんが、消費者のために「安売りする」努力は欠かせません。「そうこうするうちに、NEBAのメンバーを始め各地の量販店は、コジマさんとヤマダさんの勢いに影響を受けるようになっていった、というのがバブル経済が終わりを告げた一九九〇年代から二〇〇〇年初頭にかけての状況で、家電流通業界が価格破壊の流れに翻弄された時代でした。よつば電機の破綻は、そうした流れの中で起きたものです」と加藤修一氏は著書で振り返っています。よつば電機は、後にカトーデンキが救済のために買収し、再建に大きな苦労をしたものの、結果的に後のFC展開、M&Aの成功につながるノウハウの獲得につながります。
まだ規模が小さかったカトーデンキですが、コジマとの極端なセール合戦で揉まれたことで、ローコスト経営に磨きをかけ、「逆説的ですが、ケーズデンキはコジマさんとの戦いで低価格路線での戦い方を覚えた」のです。加藤修一氏は、コジマやヤマダとの北関東戦争を経験したことで「強い会社になることができた」と振り返ります。この「強い」というのは、販売力がある、店舗間競争で負けないという単純な優劣ではなく、「どのような状況にあっても、対応できる余力や選択肢を持つ経営」であり、「どのような競争環境、市場環境であってもしっかり利益を出せるローコスト経営」です。社員が無理をして数字を作っている会社は、市場が好調な時はうまくいっても、ひとたび市場環境が悪化すると、社員がさらに無理を重ねなければ倒産に追い込まれます。それよりも、競合に対抗できるだけの余力を持ち、やるべきことを徹底してやることが「真の強さ」につながります。
歴史に「もし」はありませんが、北関東YKK戦争がなかったら、今のケーズデンキも、「がんばらない経営」と言う言葉もなかったかもしれません。栃木県のコジマ、群馬県のヤマダ、そして茨城県のカトーデンキ。北関東というエリアで熾烈な戦いを繰り広げた3社は、その後家電流通の主役へとのし上がっていきます。一方で、かつて隆盛を極めた地方量販の多くが、バブル崩壊を機に退場していくことになります。
コメント